偶数月15日恒例の外面良子ババ~への年金振込確認を含む金融機関巡りのついでに、菩提寺まで足を運び
当所月初め記事の必須アイテムである暦を貰った
寺からの帰り道ではプチ脱北気分を味わえる理由
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誰も知らない?誰もが知っていた! - mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
明日というアカルイミライに架ける橋を求む - mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
土居川公園遊歩道を北上が、「誰も知らない」ままドロ~ンと姿消しそうな、北朝鮮のそれに倣って「大町ルート」だけど
旧・花時計側(大町側)からテニスコート側(櫛屋町側)に南下すると、目的地が見えてるだけに
さしずめ「冬季に凍結する豆満江を渡って中国へ向かうルート」でしょかね
あのルートは、中国当局が脱北者を難民と認めておらず、発見次第不法入国者として北朝鮮に送還するもんで
たかが公園遊歩道で一か八か命懸け気分まで味わえる、やはり怖コワなのねルートなのがw
難民、か
出身国を問わず何割の難民が、受け入れ先の永住権や国籍を取得出来てるんでしょね(・・?
わずか数分ながらも
1979/11/04~1979/11/25
20:50-21:35
全4回
44年ぶりに観られたは置いといて
リー・トゥ・クック(母ナウ)、グェン・チー・ミー(娘ミーユン)、どちらも素人でベトナム難民かしらん
難民でなければ、日本駐在ベトナム大使館員家族みたいな、やはり素人と思う
尚、原作の【ベトナム難民の涙】の章
近藤夫妻が、1977年、与那国島のベトナム難民仮収容所を訪れた
収容所と言っても殺処分するわけじゃなし、島の公民館ね
86人のうち、13歳以下が33人で、最年少は生後5ヶ月、他に5ヶ月から6ヶ月の妊婦が3人いた
ベトナム脱出用に使った漁船で与那国島に漂着した難民を慰問すると
彼らは脱出決行当日たまたま漁船に乗り込んでいた下働きの12歳少年を連れて来ていた
少年を下船させると密告されて拿捕されるかも知れないからね
この少年、ナウさんにすっかり懐き、夫妻が島を去る日、「俺、このオバちゃんと一緒に行く」と泣き出した
皆、一瞬、沈黙した
ナウさんは屈み込み、涙を流しながら、「ここの国の許可が無ければ、アンタに何もしてあげられないの」と言い聞かせた
やがて少年はナウさんの側を離れ、公民館のテラスの隅に行き、脇を向いて坐り込んだ
漂着先の国の許可が無ければ、何もして貰えない
当時の日本が、単一民族思想などと幻想を振りかざし、難民に冷淡だったを思えば
下働き少年を含む与那国島の難民、いや日本国内の全ての難民仮収容所の難民も、今頃、どうなってるんだろう
欧米諸国に受け入れられた難民の場合
後年、本国当局の軟化により里帰り可能となったはず
サイゴンで結婚し、ニッポン亭主の帰国に際し娘ともども国籍取得して日本人となったナウさんの場合
亭主の赴任先バンコクのベトナム大使館で、亭主がフランス語で作文した手紙を添えて渡越申請したら
「何年も帰国しないで墓参りしてないとかダメですよ」と笑われ、通例より早く認められた
ミーユン里帰りの時なんて、外国人特権をフル活用し、裕福でない一族を娯楽に連れ出した
それらと日本を比較してみ
ニッポン亭主が法務局で妻と娘の日本国籍申請した時、娘の名前を《近藤ミーユン》と書いたら
事務官は「こんなの、日本人として通りません」として却下し
《近藤ユン》も「これもそう無い名前だなぁ」と渋い顔で受け付けたが
ぶっちゃけ、「お”い事務官、自分が逆の立場なら、どうする?怒るんちゃうんけ!」
実際、無断で自分の名前をチョン切られたミーユンは不本意により、意地になって自分をミーユンと呼ぶようになり
人に名前を訊ねられると「わたしは、ミーユン・コンドウです」と胸を張って答え、学校でもミーユンで通っていた
親の低能知れるキラキラやDQNの改名を子供が申請を親が妨害じゃあるまいし、怒って当たり前
そんな簡単なコト、自分がされたら嫌なコトが理解出来ないほど傲慢な国を思えば
昭和期に漂着したベトナム難民が現在どうなってるか気になる
つか
外国人への生活保護「最高裁で決まったのに…」 - YouTube
申請する側、認める側の双方を、古のベトナム難民が見ての感想を知りたい
日本だって同じをお忘れなく