雨戸にしたらガラス窓全開出来る代わり、そうすると部屋の中マックロクロスケに幽閉気分満開で欝々が困るは置きw
スルー推奨の、アタシ認知症防止用ダラダラ備忘録をば
【悲惨】世の中の全てに嫌われた女…誰も救われない最期 - YouTube
社会人になって発達障害を診断された者です。
今は発達障害を持つ人のための支援はあり、世間に認知されていますが、
今回の動画の舞台はアスペルガー障害が認知されていない時代だからこそ悲劇的な結末を迎えてしまったのではないかと思います。
食卓の有無に関わらず… - mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
手は離しても心まで離さず、Watch Your Boy & Girl(餓鬼を見張っとけ) - mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】
現代とて、子供に発達の診断下りても認めたがらない親いるだろうから
今も生きてりゃ73歳の1951年生まれがアスペなんてまず想像つかん罠
それより気になった点
奇妙な事件簿「オルガ・ヘプナロヴァ事件」【ゆっくり解説】 - YouTube
トラバントは当時の東側を象徴する大衆車。
西側と比べるとかなり時代遅れな設計だったが、それでも東側に住む人々には十分高級品だった。
ましてろくに仕事もしていない若者がポンと買えるわけもなく、親から援助を受けていたことは容易に想像できる。
親としては懐かない娘に対する精いっぱいの愛情表現だったのかもしれないが、
本来はもっと精神的なスキンシップが必要だったように思う。
愛人を振り回す、放火するといった行為もこういった精神的寂しさから来るもの行為に見えなくもない。
通り一遍な対処で育てようとした親の責任は大きいと思う。
とはいうものの、戻れないところまで来てしまった者に対しては、やはり社会はするべき選択せねばならない。
親からの援助さておき、その時代のチェコスロバキアと言えば
チェコ最後の女性死刑囚として絞首刑に処された22歳。社会から虐待を受け続けた彼女は、なぜ復讐という名の無差別殺人を決行したのか(集英社オンライン)のコメント一覧 - Yahoo!ニュース
1968年からの「正常化」時代を、「暗い灰色」と描くのは、チェコスロバキアに関する理解を妨げる。
フーサーク政権時代のチェコスロバキアは、繁栄し、恐怖など観られなかった。
しかし一方、ソ連に「征服」され、春に開花した自由が制限され、反感を圧し殺した諦めが支配していった。
しかし、チェコスロバキア国民が、良く組織し働き、非効率な社会主義制度を強制された下で、
現存した社会主義国としては、最もマシな例を歴史に残したことは、称賛されていい。
フーサーク時代の最盛期を観て、いわゆるかつてのイギリス病のような停滞に加え、諦めの停滞が観られた一方、
当時としては世界的に高い生活水準を享受して繁栄があったことも事実である。
東ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア北部等と共に云々、これは間違いない
ずっと後年、1980年代、北朝鮮国内で「ウチは諸外国より1世紀遅れている」と囁かれたというが
ごく限られた留学先である東ドイツから帰国した学生の話が、周囲から「嘘吐け」と全く信じて貰えなかったと合致する
留学生自身が東ドイツのビール腹農民を見て「この国では偉いさんも肉体労働するんだな」はともかく
(北朝鮮でビール腹の類は将軍様や労働党幹部の支配階級と相場が決まっている)
市場に食料品わんさか陳列されていることが北朝鮮国民にとっては異次元であり
「あり得ねー」、肉は人口肉に決まっていると押し切られたそう
共産圏=皆ボンビ~の思い込み、何とも恐ろし屋
チェコスロバキアの場合
この革命は、1か月後のルーマニア革命のように大きな流血に至る事態は起こらなかったことから、
軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて名付けられた。
チェコスロバキア国民の生活水準は、他の東欧諸国より恵まれていたとは言え
東欧市場の停滞の影響を受けて西側諸国に比べ低い状態が続いていた
早い話、国民の間では不満が高まっていたのが原因となった革命で
飢餓の蔓延どころか、マァ普通に飯食えていた点はお忘れなく
ロウカの老母が「露西亜の餓鬼に食わせる飯は(あるけど)無い」でもあったw
ところで、1968年からの「正常化」のきっかけは(・・?
チェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェク
彼を中心とした改革運動「人間の顔をした社会主義」「プラハの春」だね
したたかな敗者たち(最新刊) | 近藤紘一 | 無料漫画(マンガ)ならコミックシーモア
目の前にいつも戦争があった。傷つき斃れる同世代の若者たちがいた。
サイゴン陥落による南ベトナムの崩壊を海外特派員として目撃した。
インドシナ戦争報道にその青春を賭け、
さらに国境地帯の砲声を追って今なお戦う人びとの真実を取材した書下しノンフィクション。
北ベトナム軍の一兵士からジャングルの中で祖国再興をめざす老宰相まで、
みずからを傍観者と位置づけながらも、彼らを描く筆致は愛情にあふれている。
【第二部 パリの革命家たち】で、フランスの五月革命と合わせて「プラハの春」に触れている
1968年と言えば、パリ和平会談
対米交渉が始まり、泥沼化したベトナム戦争の「終わりの始まり」としてハノイ側の歴史に刻み込まれる年となった
米国、北ベトナム代表団のパリ到着とほとんど時を同じくして、会談ホスト国フランスが五月革命の大混乱に陥り
そこへソ連の優等生であったノヴォトニー体制の崩壊による「プラハの春」が加わるから、あんれま~と全世界を驚かせ
西のパリのみならず、東のプラハにも、世界の名のあるジャーナリストの大半が顔を揃える勢いとなった
半ば野次馬気分でパリに滞在していた近藤のおっさんも
ベトナム方面があれこれ揉めている合い間を見て、「プラハの春」見物に出かけた所
果たして、新体制の自由化政策でドッと西側からの観光客や消費物資が流れ込んだプラハは、文字通り、お祭り騒ぎだった
西側の消費物資が流れ込む、それ、ベルリンの壁崩壊した直後の東ドイツみたいな感じ(・・?は置き
自由化は西側の出版物、新聞・雑誌の販売にも及んでいたので
プラハに到着した近藤のおっさん、数日遅れの『ヘラルド・トリビューン』『ル・モンド』が買える駅近くの大きな書店へ足を運んだら
ある日、『ル・モンド』を買った後、店の出口で、20歳そこそこの青年、プラハ大学に通うミハル君に声を掛けられた
「ミハル」は、英語のマイケル、フランス語のミシェルを説明しといて
小脇にしている『ル・モンド』を見て、文法も発音も相当怪しげながら「フランス語を話すイイ機会」と考えてだという
来年はフランスへ行くと夢見るミハル君、ロシア人は好きだけどソ連の共産党と政府は嫌いという社会主義者だから
当然、声高にソ連を罵倒し、「人間の顔をした社会主義」指導者ドゥプチェクを手放しで賛美するのは言うまでもあるまい
一方近藤のおっさんは、2週間余り「プラハの春」見物し、西ドイツ経由でフランスに戻る頃には
ミハル君を始め、何人か接触した知識人、学生達の反ソ感の他
あまりにも抑制無く花開いてしまった「春」の行く手に、一抹の不安も感じていた
「こうも真っ向から面子を汚されてはモスクワも堪忍袋の緒を切らすのではないか」
「人々の信望と尊敬に支えられていても、ドゥプチェク路線はナイーブ過ぎるのではないか」
結果、ビンゴ★
現に、モスクワは既にワルシャワ条約機構軍に合同演習の号令を下していた
近藤のおっさんがパリへ戻り、1ヶ月ほどスペインをクルマで走り回った後
帰途のトゥールーズで、フランス各紙が一斉に「ソ連軍、プラハを制圧」を知った
ミハル君はどうなったかって?
フランスなんて勿論行けま宣言!、但し1年後に、スイスへ亡命したという葉書が届いたけど…
個人的に、な~んとなく
The Unbearable Lightness of Being (1988) - Trailer - YouTube
テレーザは亡命後、雑誌のカメラマンの職を得るも
ソ連軍の戦車と、糾弾の声を上げる民衆の波に交じって、無心にカメラのシャッターを切った写真が
西側では既に出尽くし感というか、証文の出し遅れっぽくなったね
トマシュの止まない女癖の悪さ、生きることへの軽薄さに疲れ果て、手紙を残して、愛犬を連れて1人プラハへと帰っていく
トマシュも結局、ソ連の監視の厳しいプラハに戻り、夫婦でプラハを逃れた後は、地方の農村でつましくも幸福な生活を送るけど
あまりにも性急な改革を望んだミハル君も
西側に順応する用意が無く、トマシュとテレーザに似た道を選んだ気がする
スイスで腕を磨き、20年後のプラハに凱旋したと信じたいものの…