mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

運命の力を操る「見えない手」により

007が晩年ボケてた言われても実は驚かない

認知症は「日本の国民病」通り越して「世界の全人類病」だからよ

昨日のニュースには

news.yahoo.co.jp

ゲルトミュラーさんの時もそうでしたが、

例えボビーチャールトンさん自身が記憶を失ってもサッカー史に燦然と輝く記録と記憶は残り続けます。

news.nicovideo.jp

ミュラーは70歳頃に発症して介護施設でリハビリ受けるくらいだ

50歳過ぎて「生涯現役で♪」「おカネ稼げればイイんだから☆彡」こそ、本物ボケの症例である

 

 

 

 

 

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真実を告げる笛 - 時空と想念の交錯

リヴァプールvsマンチェスター・ユナイテッドのおよそ半月前

ヒルズボロの悲劇 - Wikipedia

2012年9月12日に公表された報告書により観客誘導の不備のほか、

緊急サービスの遅延や不十分な医療措置、警察関係者により捜査資料の改ざんや意図的な情報誘導が行われたことが明らかとなった

赤い悪魔、今季PLでは目下ボロボロは置いといて、その節は有難うさん

(Sir、Dameに叙される者を呼ぶ時、姓でなく名の前に称号を付けるので)サー・ボビー登場に感慨深かった

ヒルズボロの負傷者の中には、3日後くらいに病院で目が覚め、一緒に観戦していた息子は死んだを知った父親がいる

これをリヴァプール以外の者で肌感覚持つのが、サー・ボビーでしょ

 

 

 

 

mathichen.hatenablog.com

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ミュンヘンの悲劇 - Wikipedia

The Munich Air Disaster: A film about Manchester United's darkest day

選手の生存者9名、その最後の1人がサー・ボビー

当時ようやっと20歳の若さだけに、精神的打撃が大きかった

こんなの一生忘れないし、認知症なら尚更だろうね

認知症は最近の出来事は忘れ新しいことは覚えられず何十年前のことを覚えてるもんだからね

サー・ボビーが例えボケ散らかそうと


European Champions Clubs Cup final Manchester United Benfica 1968

チャンピオンズカップの決勝に勝ち、10年越しの忘れ物を取り返したその日、

祝勝会をボビーは欠席し、自室で1人涙に暮れながら、妻のノーマに

「関係のないメディアの連中と馬鹿騒ぎをするのには耐えられないんだ。

この勝利は僕たち(ミュンヘンの悲劇に遭った人たち全員を含む)の物だ」

と語った。

 

ボビー・チャールトン - Wikipedia

異存ございません

 

 

 

 

今年の御巣鷹山記事に

「『赤十字のトラック』(言うまでもなく、偽装)に乗ったがために、選別すらされず煙突からの煙もいれば

収容所への移送列車に乗り込む寸前、『友だちだから』と鉤十字に引きずり下ろされたのも」

昨日記事に

「兄弟姉妹の何番目に生まれるか、んなもん、Custom order(特注)不可のモノ

長男に生まれるか、末っ子長女に生まれるか、 障害児誕生と同じく、誰に当たるかわからない」

…本当、何事に於いても誰が何時どうなるか、神さんと悪魔以外にわからないよ

 

 

 

 

明暗や境遇が分かれると言えば

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The Diary Of Anne Frank 1959 Trailer | Millie Perkins

Het Achterhuis(後ろの家)8名もだ

逮捕後、オットー・フランクを除く7名が死亡

但し死亡が「公式」に確定してるのは、4名

「公式」死亡順位に挙げると

ヘルマン・ファン・ペルス - Wikipedia

フリッツ・プフェファー - Wikipedia

エーディト・フランク - Wikipedia

ペーター・ファン・ペルス - Wikipedia

所謂「ファン・ダーンのおじさん」は、1944年9月5日から6日にかけてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に到着

その時の選別では労働可能と認定され、10月初め頃にガス室送りとなった

いくつかの不運が重なり、SSの勝手な判断による選別であった

 アンネ言う所の「Dr.間抜け」(歯医者デュッセルさん)は、1944年12月20日にノイエンガンメ強制収容所で死亡した

アウシュヴィッツ・ノート』によると

9月6日から12月20日の間にアウシュヴィッツからノイエンガンメへ直接移送が行われたことは無いとされているため

恐らく10月29日発車の移送列車でザクセンハウゼン強制収容所

あるいは10月28日発車の移送列車でブーヘンヴァルト強制収容所へ送られ

その後ノイエンガンメ強制収容所へ送られたのだと考えられている

1944年10月28日、ソ連赤軍の接近に伴うアウシュヴィッツ撤収作戦の一環で

ベルゲン・ベルゼン強制収容所へ送る者の選別により

フランク姉妹が移送され、両親はアウシュヴィッツに残された

自分に支給されたパンを娘たちに分け与えるほどのお母さんが

娘たちと切り離された後、衰弱が激しくなり

確か、もういない娘たちのためパンを食べずにいる精神状態で、1945年1月6日に餓死している

ペーターは当初、「後ろの家」男性陣と一緒に同じブロックに収容され

父のガス室送り後には、衰弱気味のオットーの面倒を献身的に見たという

しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された

ソ連軍がアウシュヴィッツに迫る1945年1月16日に

オーストリア・マウトハウゼン強制収容所への「死の行進」、徒歩による移送に選別され

この長旅には何とか生き抜いたが、結局到着先のマウトハウゼン強制収容所で死亡した

「死の行進」では実の所、最初の組から離れてしまい

別の隊列で各地を巡らされた末、貨車で最終目的地に到着と考えられている

公式の収容所名簿によると1945年5月5日がペーター死亡日で、収容所が米軍によって解放目前であった

 

 

 

 

 上記4名も曖昧模糊な点少なからずなんだけど、残る3名と比較したら「公式」の分マシ?

マルゴット・フランク - Wikipedia

アンネ・フランク - Wikipedia

アウグステ・ファン・ペルス - Wikipedia

オットー・フランクは娘たちについて、ドイツ国内の収容所ならポーランドのものよりマシだろうと希望を抱いていた

現実は…

ベルゲン・ベルゼンにはガス室機能設備が無かった

その代わり、劣悪極まる衛生状態や過酷な労働など他の原因により、バタバタ倒れて逝った

アンネ目撃者の証言によれば

一緒にいた姉のマルゴーと共に体力の衰えからチフスに罹り、姉が先立ち

ボッチとなった妹が後を追いかけるように亡くなった

1945年3月31日を死亡日とされているが、これは特定されたものではなく

生存者の証言などにより、それよりも早い2月の終わりか3月の始め頃と推測される

遺体は確か判明しておらず、死屍累々の中に埋もれてる?

ベルゲン・ベルゼンで姉妹と再会したのが、ペーターのお母さん

アンネが親友ハンネリ・ホースラルと、1945年初め頃に有刺鉄線越しだが再会果たし、何度か繰り返した

アンネの名前を聞きつけ、アンネをハンネリ近くまで連れて行ったりしたのが「ファン・ダーンのおばさん」

(ホースラル一家はパラグアイの旅券を所有していたため

赤十字の支援物資を受けられる『中立国外人』ブロックに収容されていた)

「ファン・ダーンのおばさん」について、1945年4月9日にテレージエンシュタット強制収容所へ移送は判明しているが

それ以降は不明で、何処かの収容所へ移送されそこで死亡したと見られている

 

 

 

 

 逮捕がそもそも「惜しい!」1944年8月

フランク一家は、オランダ国内のヴェステルボルク通過収容所からアウシュヴィッツへの最終列車に乗せられたのが惜しい

1944年春~秋に「最終解決」とやらのピーク迎えるも

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死者に勝る存在はいないが、光仄かに - 時空と想念の交錯

アンネの義姉回想録に、今頃(1944年夏頃)来るとか運悪いねと言われる場面あるほど

アンネ他8名のアウシュヴィッツ到着は、最終解決の最終期であった

誤差何ミリ程度の差で、明暗分かれたとしか

 

 

 

 

ところで、死亡7名のうちペーターに、アウシュヴィッツに残れる可能性があった

 

 

 

 

1945年1月27日アウシュヴィッツの病棟にいた所をソ連赤軍により解放されたオットー

赤軍は病人とそれ以外の者を隔離し、オットーもこれまでとは別のバラックに移され、2月23日にスイスに居る母親に手紙を書いた

「エーディトと子供たちの所在はわかりません

1944年9月5日に別れたきり、ドイツに移送されたという噂をわずかに聞くだけです

3人とも無事でいてくれることを願うだけです」

とにかく弱っていたおかげ様により、まだ終戦前に解放を迎えられた

「死の行進」出発前、最後の見舞いに訪れたペーターに、オットーは「ここ」に残るよう説得を試みている

「ここ」=病棟を指し、病棟では何の治療もされない代わり、殴られたりはしない環境だった

あと10日で解放の時期だけに、ペーターの不運わかるでしょ

 

 

 

 

 が

 

 

 

 

「記録が残ることでなく、人が帰って来ることが嬉しい」

日記を保管して預かったミープ・ヒースの言葉である

 Het Achterhuis8名のうち、オットー1人が生還した結果、『アンネの日記』が陽の目を見たと考えている

書いた本人が生還だと、自分の意識や戦後の事情に変化などにより果たして?

誰も生還しなかった場合、支援者=内情に熟知しない傍観者であるミープが判断に苦しんだと思う

内情を熟知し関係者に配慮出来る大人1人の生還が鍵でしょね

日記の公表は不可欠と考えれば、ペーターにゃ悪いけど…

 

 

 

 

(追記)

1944年には、ミープが、エーディト、アウグステの両母どちらかから「お礼に」と宝石だっけを貰い

「これを売れば」と思ったほど逼迫気味であったが(ミープは相手の好意を汲んで受け取った)

Het Achterhuis8名、2年余りの潜伏生活送れたほど経済水準は平均以上だった

高いカネだけ取られて劣悪な環境に置かれる潜伏生活少なくない中

本当に親身な支援者たちの尽力での自分たちは恵まれていると、アンネも日記に書いている

その辺りの「幸運」が、最悪な時期に逮捕というツケに回った気がしなくもない