FC2への夜逃げ以来、Yahoo!と同じ記事を投稿するのが手間暇食うわ
一日に三本立てとかやってみろ、計6回の投稿だぜ
ヤホーのAhoo!
そお、本日は17分・34分・51分の17分置き三本立てよ
まずはお茶請けに
身長180cm超えの大女レナータ・テバルディ
全日本プロレスが女装みたいなのよりゃ目に優しいかしらん
1950年代に、1歳下のマリア・カラスと火花を散らす歌姫であった
1973年当時51歳で、全盛期はとっくの昔に過ぎていたけど
お世辞にも美声と言えないカラスが逆立ちしたって勝てない歌声は健在だね
カラスが、本来メゾ・ソプラノの野太い声質でハイ・ソプラノの装飾歌唱披露する超人ぶりに対し
テバルディはぶっちゃけ、不器用な歌手と言えた
それでもイタリアの太陽の如く明るく澄んだ声は、可憐な蝶々さんに相応しい
絶不調なりに聴かせるシルヴィア・シャシュおねえさんもねと主張して
(卓越した演技力で誤魔化し?それは言うな!)
【桜の枝から揺さぶられ、可愛がって下さいねとばかり蝶よ花よと舞うには…】
欧米各国での活躍
1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。
1915年のイギリス・デビューの成功を受けて1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『あやめ』をニューヨークやサンフランシスコ、シカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である)。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた。
1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島のパレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した。
評価
作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーやヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共演する。
三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。
( Wikipedia:三浦環より引用 )
『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成というけど、一説には、アリア歌唱回数もカウントされるらしい
功成り名を成した活動期間、海路と陸路が主体の時代の移動方法を考えてみて
仮に蝶々さん専門としても、2000回なんて舞台で歌える数字じゃない
また、2000回も歌ったら、確実に声を壊すわよ
功成り名を成した活動期間、海路と陸路が主体の時代の移動方法を考えてみて
仮に蝶々さん専門としても、2000回なんて舞台で歌える数字じゃない
また、2000回も歌ったら、確実に声を壊すわよ
トゥーランドット、リューと並んで、登場人物の出身地が東洋と指定される
日本人は無論、中国人、韓国人、とにかく亜細亜系ソプラノにとってウマーと有難い役柄である
とはいうものの、求められる力量はワルキューレ級、戦艦みたいなワーグナー歌手級のもの
そんじょそこらの歌手が問答無用のバタフライ歌いとして成功収めるのは至難の業
オランダのリート歌手エリー・アメリンクによると、日本人は特に厳しい
感情表現面に於いて、内向的なため、外へ向かう中国人や韓国人と比較して不利も指摘出来るが
高音域はいくらでも出るが、中低音域が弱い、それが声楽面の課題という
「中音域の支えがあってこそ、安定して輝かしい高音域が生まれるんですけどね」
日本人は無論、中国人、韓国人、とにかく亜細亜系ソプラノにとってウマーと有難い役柄である
とはいうものの、求められる力量はワルキューレ級、戦艦みたいなワーグナー歌手級のもの
そんじょそこらの歌手が問答無用のバタフライ歌いとして成功収めるのは至難の業
オランダのリート歌手エリー・アメリンクによると、日本人は特に厳しい
感情表現面に於いて、内向的なため、外へ向かう中国人や韓国人と比較して不利も指摘出来るが
高音域はいくらでも出るが、中低音域が弱い、それが声楽面の課題という
「中音域の支えがあってこそ、安定して輝かしい高音域が生まれるんですけどね」
見るに耐えない妙ちくりんな舞台でなけりゃ、長崎に富士山見えたってイイの
西洋人の求める異国情緒が作品のツボなの
ミラノ・スカラ座初演版では、「子供寄越せと」態度デカ過ぎて聴衆から顰蹙買ったケイト・ピンカートンが
改訂版では、蝶々さんに直談判せず木の陰で待ってるのが可愛げあるとか
それだってどーでもイイの
日本を舞台にしていようと、日本歌劇じゃなくイタリア歌劇なの
ホント、三浦環の曲りなりの成功が良かったのか悪かったのか
プッチーニ作品が後世に貢献したのは
良く言えば、インスパイア
悪く言えば、パクリ
この歌曲じゃね