mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

夢の続きは、再び夢の中へ…「寝酒を頂戴」「ケチらないでね」

とある主婦管理人が、今年の春先
「一人鍋CMありますけど、あれは、日常は誰かと食事する人の息抜き用ですよね」
独居する実母とトメさんの両方、日常はボッチで食事するという
莫大な遺産相続した有閑マダムじゃないから、家政婦とベラベラ話しながらと行かないもんね
孤独死だけは困るわと共感するボケ老人予備軍の1966年生まれざます




ガルボトーク 夢のつづきは夢…’(1984年)
http://movie.walkerplus.com/mv2118/
https://www.youtube.com/watch?v=08J5gfaaLEM
往年の大女優グレタ・ガルボに会う事を夢見て生きる中年女性の姿をコミカルに描く




ガルボトーク」の説明は↓の通り

GRETA GARBO in english Anna Christie the whiskey scene - (her first talkie 1930 :-)
Garbo 1930 in her first talkie Anna Christie but she herself preferred the german version
‘Gee, what a voice! Deep, plus a Swedish accent. Unsurpassed in eighty years !

ガルボが話す! (Garbo talks!)」という宣伝文句とともに公開された『アンナ・クリスティ』(1930年)は、アメリカの劇作家ユージン・オニールの戯曲を原作とした作品で、ガルボにとって初のトーキー映画だった。この映画でガルボが初めて口にした非常に有名な台詞が「ウイスキーをちょうだい、ジンジャエールとね」「ケチらないでね」 (Gimme a whiskey, ginger ale on the side, and don't be stingy, baby)」である。

Wikipediaグレタ・ガルボより引用 )

映画がサイレント時代からトーキー時代を迎え
英語が下手で失業した欧州出身者
英語圏出身だが、声が悪く、人気ガタ落ちした者
否応無しの世代交代迫られる者わんさかの中、スウェーデン訛りも魅力のうちってか、生き残ったグレタ・ガルボ




であったものの





堅物の共産主義者ニノチカを笑わせるべく必死になるも空振り続くと思いきや
おっさんが椅子ごと転倒したのを見て笑われるお粗末
メルヴィン・ダグラスと共演したコメディ映画‘ニノチカ’(1939年)はヒットし
それまでの憂鬱で哀愁を帯びた女性というイメージを覆す明るい女性を演じ上げたガルボ
三度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされたこの作品の宣伝文句は、「ガルボが笑う!(Garbo laughs!)」
ガルボ初のトーキー映画のGarbo talks !をもじったものだった




最後の出演作と早すぎる引退(1941年 - 1948年)

コメディ映画『ニノチカ』がヒットしたことで、MGMは同じくロマンティック・コメディのジョージ・キューカー監督作品『奥様は顔が二つ』(1941年)にガルボを起用した。ガルボはこの作品でルンバ、水泳、スキー姿を披露している。『奥様は顔が二つ』は批評家からは不評だったが、大衆からの受けはよく興行成績も悪くなかった。ただしガルボ自身は「我が墓標」と称したといわれている。そしてこの『奥様は顔が二つ』が結果的にガルボが出演した最後の作品となった。この映画が公開されたときのガルボは36歳で、16年間の女優活動で30本あまりの映画作品を残しての引退だった。

『奥様は顔が二つ』に対する評論家たちからの不評がガルボに屈辱感を与えてはいたが、ガルボはまだ映画界から引退する考えを持っていなかった。しかしながら、ガルボの出演作の興行成績がヨーロッパでの配給に左右されるようになり、さらに第二次世界大戦の勃発によって、MGMがヨーロッパへ映画作品を配給することが困難になっていった。1942年にガルボは『レニングラードの少女』の出演契約書にサインしたが、間もなく映画製作の計画自体が取止めとなっている。ガルボは戦争が終われば女優を続けられると考えていたが、自身が本当に映画界に戻りたいのかどうかという疑問も抱いていた。ガルボの親しい友人で映画での共演経験もある女優、脚本家のザルカ・フィアテルは1945年に「ガルボは映画を撮影したくてうずうずしています。でもその一方で恐れも抱いているのです」と語っている。また、ガルボは自身の年齢についても気にかけており「時は確実に私たちの顔や身体に跡を残していきます。変わらずにいることはできません。何とか折り合いをつけていくしかないのです」と語っている。『奥様は顔が二つ』の監督で、映画が失敗したことの原因とされることもよくあったジョージ・キューカーは「『奥様は顔が二つ』の失敗のせいでガルボの女優生命は終わったとしたり顔で話す人がいる。だけどこれはあまりにも短絡した考えだ。確かに彼女はこの映画でしくじったのかも知れない。でも(ガルボが引退したのは)彼女自身が映画に見切りをつけて、二度と続けようとしなかったからだと私は思う」と語っている。

1948年にもガルボは、1933年に主演した『クリスチナ女王』のプロデューサーであるウォルター・ウェンジャーが企画した、フランスの文豪バルザック原作の映画『ランジェ公爵夫人』の出演契約書にサインしている。この作品の監督にはマックス・オフュルスが予定されていた。ガルボは数回のスクリーンテストを受け、脚本に目を通して映画のロケ地であるローマへ1949年の夏に到着している。しかしながら製作資金の調達が頓挫し、映画製作が放棄されてしまった。このときの『ランジェ公爵夫人』のスクリーンテストが、ガルボにとってカメラの前に立った最後の経験となった。このスクリーンテストの映像は失われたと考えられていたが、1990年に映画史家レオナルド・マーティンとジェニーン・ベイシンガーが41年ぶりに発見した。この映像の一部が2005年に公開されたターナー・クラシック・ムービーズのドキュメント作品『ガルボ』で使用されている。

ガルボは1949年に『サンセット大通り』で、サイレント映画時代の架空のスター女優ノーマ・デズモンド役の出演依頼を受けた。しかしながら、プロデューサーのチャールズ・ブラケットとの打ち合わせの後でガルボは、この話には何の興味もないとして出演を拒否した。

これらのほかにも、1940年代にガルボのもとには多くの映画出演依頼の話があったが、ガルボはほとんど全ての依頼を断っている。ごく僅かな例外もあったが、きわめて些細な理由からガルボの映画出演が立ち消えとなった。ガルボは自身が映画界から引退した理由を、友人たちには生涯話すことはなかったが、死去する4年前にスウェーデン人の伝記作家スヴェン・ブロマンに理由を語っている。「私はハリウッドに疲れ果てていたのです。仕事が好きになれませんでした。撮影現場に行くことを苦痛に感じる日々が多すぎました。……本当の私は全く別の人生を送りたかったのです」





結局、ニノチカが、転機じゃないのかね
本人がゲラ子であろうと構わないものの、憂鬱で哀愁が吹っ飛んじゃ、夢壊れるじゃん
ガルボさん、貴女も笑えるんですね」が確認出来たら良かっただけのような~




1990年初頭に、料理人兼家政婦のクレア・コージャーに介助され
杖をつきながら病院へと入って行くガルボの写真がマスコミに掲載された事もあった
が、ほとんど、謎めいたまま世を去った




夢の存在は、夢のままでいいでしょ
全然、ガラリ、変わるけど、原節子を思い起こすべし
昔々、日本がアメリカさんとの戦争に負けた頃、マッカーサー元帥の愛人だったという噂が流れたそうね
真偽はどーでもいい
「噂を信じてる爺さんたちがそれで幸せならばイイ話」
1970年代に現れたシラケ世代に属する知り合いと意見一致したを備忘録したいまで




17分後記事へと続く