mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

冒険者たちとして若草の萌える頃が失われた女なら

17分前記事から続いた





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特集 ディーバ(大女優)3 マレーネ・ディートリッヒ MARLENE/マレーネ(1986年 ドキュメンタリー映画

監督 マクシミリアン・シェル

「伝説」を解き明かす

 1982年9月マクシミリアン・シェルはパリに到着した。マリーネ・ディートリッヒのドキュメント映画「マリーネ」を撮るためだ。「ニュールンベルグ裁判」から21年、ディートリッヒは80歳、シェルは51歳になっていた。撮影はシャンゼリゼのディートリッヒのアパートメントで行われた。ディートリッヒは声だけの出演である。過去のフィルムやスチール写真をみながらコメントをつけていく。ディートリッヒの後ろ姿のごく一部が、黒い影となって画面に入り、タバコをくゆらせているのがわかる。二人の会話はもちろんドイツ語だ▼気がつきにくいことだったが、ディートリッヒにせよ、イングリッド・バーグマンにせよ、彼女らの女優としての仕事はほとんどが英語、つまり外国語でなされたのだ。これは母国語でセリフをしゃべる者にはわからないプレッシャーがあっただろう。バーグマンは何度か舞台で単語をまちがえ、おおらかにやりなおして拍手を買っているし、ディートリッヒの娘マリアは「母は英語では本音を話さなかった」と追想している。本音を隠したというより、ニュアンスが伝えにくかったのだと思える。不自由なく英語をこなしてはいても、母語とは異なるものがあるのだ▼ディートリッヒは79歳のとき骨折してからパリのアパートメントで寝たきりになった。終の棲家がアメリカでなくパリだったのは、やはりヨーロッパ人であること、アメリカの精神風土が最後までなじめなかったこと、そして何よりも「恋人のような街・パリ」が気にいっていたからだ。「ニュールンベルグ裁判」を最後に、女優を退いたディートリッヒはそれから約20年間、歌手として世界を巡業したのだ。ホテルでトランクに荷物をつめているディートリッヒのスナップがある。娘マリアはその写真説明を「旅から旅」としている。この20年間に何度かの骨折と手術があり、アルコールと麻薬で痛みを抑え、年々その量が増えていきながら「求められることに応える」ことをポリシーとし、一度もキャンセルしなかった世界巡業だったことを考えると、尋常の気力・体力ではない。このビデオ化や彼女のステージのCD化には、経済的な必要があった。シャンゼリゼの生活を維持する、といってもディートリッヒのお金の感覚には、稼ぐことと使うことはあったが、倹約することはなかったのだ。収入がなくなっても生活のレベルを変えないディートリッヒであったから、これまでのフィルムを編集し直し市場に出すことが当然考えられた▼1937年5月30日アメリカの独立映画館主協会がすべての映画業界紙に「切符売り場の疫病神スター」という広告をのせた。名のあがったのはつぎのスターたちだった。ジョーン・クロフォード/ベティ・デイビスマレーネ・ディートリッヒグレタ・ガルボキャサリン・ヘップバーン。彼女らは観客を動員する能力のない女優という烙印をおされた。ディートリッヒはこれがあってからの仕事で示された、屈辱的なギャラを足蹴にしてアメリカを去りパリへ移った。当時のディートリッヒの反応をマリアはこうまとめている「ディートリッヒの映画はもう売れないというのよ。もちろんディートリッヒの映画を売ることなんかあのバカどもにできないわよ。お粗末な人間だから。ガルボまでリストにあがっているわ。あのギョロ目のクロフォード。彼女ならまあわかるわね。あんな女優をみるためにだれがお金を払うものですか。でもヘップバーンとなるとね。彼女も名前がのっているのよ。信じられない話。結局誰が残っている? アイリーン・ダン? あれがスターだっていうの。まったくどうかしているわ」へこたれるどころか、言いたいことを言いながら、ディートリッヒはさっさとニューヨークから大西洋を渡った。折れたのは映画会社のほうだった。ディートリッヒは初めての西部劇「砂塵」の大アクションでクリーンヒットをとばし復活する▼何度となく襲ってきたこういうピンチを乗り越えてきたディートリッヒに「マレーネ」製作はどう映っただろう。インタビューにこうある「全然過去には興味ないわ、わたしは現実的な人間でロマンティストではないの。人は夢見る場所を持つべきではないわ。わたしに夢見る時間はない。私の一生は仕事してきた時間よ。死を恐れる? 人は生を恐れるべきだわ。人はみな死ぬわ。死後の世界ですって。わたしはきょう何をすべきかだけ考える、それがシンプルだわ」デビューから最後のステージまで、自分の全履歴つまり過去であるが、それを映画にしてくれていることに対するこれが言葉かと思うほど可愛げがない、というより総集編「マレーネ」なんてまだ要らない、自分には必要ないといわんばかりに聞こえる。その姿勢がたぶんディートリッヒであり、彼女は最後までディートリッヒを演じたのだ。本作はニューヨーク映画批評家協会賞のドキュメント部門を受賞したがマレーネが喜んだかどうかはわからない。それはともかく、はっきりいってそう美人でもなく(ディートリッヒは自分が団子鼻だと信じていた)演技力はキャサリン・ヘップバーンやベティ・デイビスと比べると異質だ。ところが「伝説の存在」となるとディートリッヒがずばぬけているのだ。なぜだろう。それを「マレーネ」は教えている。

http://womanlife.co.jp/topics/k-2938





1975年、コンサート中に足を骨折して活動を引退せざるを得なくなる
引退後はパリに隠棲
引退から時期が経ってもファンレターは絶えず、「パリ市。マレーネ・ディートリヒ様」だけで手紙が届いたという
引退後の姿は全く謎に包まれており、人々の興味の対象となった
ドイツの大衆紙ビルトが、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリヒだ」とスクープを出した事があるが
彼女の親族によって否定された





ジャスト・ア・ジゴロ’(1978年)
カメオ出演であるゼーメリング男爵夫人役が、マレーネ自身の最後の映像かね

これで、77歳の後期高齢者かよ

46個下、孫みたいなデヴィッド・ボウイ襲っても許すわ





ガルボといい、ディートリヒといい、ニュース映画や紙メディアといったアナログ時代に生きたから幸運ね
鼻の毛穴までクッキリ映し出すディジタル時代だと、引退後の様子までクッキリ暴露が怖いでしょ
来年40歳で引退するらしい安室奈美恵、そお簡単に引きこもり出来るのやら
現役時点でいろいろ検索出来るぞなもし
http://news.livedoor.com/article/detail/13650220/
https://matome.naver.jp/odai/2140456627206342401




…横になりながらタブレット見てたら、若くして引退後姿見せない女優に関する記事が目に止まったの




【人形の谷間は闇が深く底無し沼…出口という頂上を探して】
https://blogs.yahoo.co.jp/borussiamagdala/34850343.html
メディアが良くも悪くも進み、何かと引っ張り出されやすい、デブラ・ウィンガーのようなタイプが、余生厳しいね




表舞台出辛い経緯を経て引退した↓が、むしろ幸運だったりして

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来歴

カナダのハリファックス出身。リトアニアユダヤ人の父親とアイルランド系の母親の間に生まれる。父親はカナダ海軍の軍人だった。ケベック州モントリオールで育ち、19歳のときにパリに発ちファッションモデルとして活躍した。

1964年、『スタンダールの恋愛論』で映画デビュー。ロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』のレティシア役で人気を博した。

1976年1月23日、『失われた男』で共演したシドニー・ポワチエと結婚し、女優を引退した。現在はインテリアデザイナーであるという。ポワチエは、ナイトに叙せられたので、彼女は「レディ・ポワチエ」と呼ばれることになった。二人の間には娘が二人おり、そのうちのシドニー・ターミア・ポワチエは女優となった。

Wikipediaジョアンナ・シムカスより引用 )

 

「愛しのレティシア♪☆」

2002年春、デンゼル・ワシントンハル・ベリーが、アカデミー主演賞獲得
この年の名誉賞が、シドニー・ポワティエで、黒いOscarNightとなった
ポワティエさん、奥さん同伴だったので
「To Sir,with Love」(‘いつも心に太陽を’の原題)を、TV画面に贈っといた





‘失われた男’(1969年)で共演した
欧州映画、あるいは、マイナー系米国映画では珍しくなかった、黒白キスシーン
ハリウッド映画では初めてなので話題となったよう
ブラックパワーは表向き、実際にはまだまだ人種差別厳しい時代に、同棲を始めた
彼が前妻との離婚成立してなかったか何かも関係したっけ
遅ればせながらの求婚を彼女が一度断ったはずだけど、最後には感動的な子連れ結婚式を迎えたとの事




ロバート・デ・ニーロが、1976年に女優のダイアン・アボットと結婚
アボットの娘ドレナ・デ・ニーロを養子に取り、息子ラファエルをもうけるも1988年離婚
黒い妻と娘を従える写真が、1980年頃のスクリ-ン誌面に載っていた
説明文に
「1947年に結婚した2度目の夫でユダヤアメリカ人のジャズ・アーティスト、レニー・ヘイトン
と共ににフランスへ渡って歌手活動を続けた
異人種間結婚として2人は世間からの圧力を受け続けるが、ヘイトンの1971年の死まで連れ添った」
歌手レナ・ホーンの例が挙げられていた
ホーン違いのオペラ歌手マリリン・ホーン、こちらは、旦那が黒人指揮者であった(Wikipediaに写真あり)




1950年代に、女優キム・ノヴァクと結婚考えたサミー・デーヴィスJr. が、映画会社から脅迫受けた?
サミーと結婚したスウェーデン人女優マイ・ブリットは、業界を干された
「水玉模様でもいい、サミーの子供が欲しい」、思い出すたび、泣けますよ
あるTV女優が黒人亭主と仲良く続いたり、時代下るにつれ、少しずつ様子変わって来ているものの
デンゼル・ワシントンが、異人種間恋愛映画を避け、ミシェル・ファイファーとの共演断ったりも見られるから
トランプが大統領になっちまう時代ともなれば、一般市民がまた不寛容の恐れ高いかもね




黒白黄、色に関係無く、年齢を重ねてむしろ良くなる女優多いといってもだ
大半はやっぱ、記事題名通りなら、記憶に残るは若く美しいままがサイコーよ