mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

弱者の中で一番強い者による不惜身命(後篇)

長過ぎる中篇を経て、ようやく後篇へと到達した




前篇に、「個人的には、1943年版、田村正和の親父:阪東妻三郎が演じる松五郎さんLOVEざます」


ところで、1943年版無法松の一生で、坊ちゃんを演じた沢村アキオといえば


妻は南田洋子実弟津川雅彦、父は沢村国太郎、母はマキノ智子、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子、祖父には「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三狂言作者の竹芝伝蔵、姪には真由子をもつという芸能一家で有名。沖縄アクターズスクール校長であるマキノ正幸は母方の従兄弟。南田との間に子供はいなかった。

真由子からは「アーチー」(「晃夫おじさん」の意味)と呼ばれていた。

Wikipedia長門裕之より引用 )

そんじょそこらの二世俳優とは比較にならない、本物の坊ちゃんであった




坊ちゃんの出演作で、アタシの一番古い記憶は映画でなくTVドラマ、モモエちゃんの赤い疑惑

大島茂は妻・敏江との間に、17歳になる娘・幸子を持つ大学助教授。フランスには舞台演出家として活躍する妹の大島理恵がいる。実は、その理恵こそが幸子の本当の母親であり、幸子は大島家の実の娘では無かった。

パリに住む理恵が日本に来るという日、父・茂を空港に連れて行くために大学にやって来た幸子は、学内の爆発事故に巻き込まれ、放射線療法用コバルト60が放出する放射線に大量被曝してしまう。その時、幸子を助けたのが、相良光夫という医大生だった。しかし幸子は、白血病になってしまい闘病生活を送ることになり、その間に父と母の秘密、そして、互いにひかれあったはずの光夫との、本当の関係(実は異母兄妹だった)を知っていく。

Wikipedia赤い疑惑より引用 )

光夫の父にして、幸子の実父である相良英治教授を演じた
当時の視聴者からTBSに多数、「異母兄妹だろうが、何とかくっつけて~」と押し寄せたというが
こういう家庭環境は現実に少なからず見られるから、不倫、離婚と再婚は軽く考えちゃダメなのよと
モモエちゃん死んじゃう最終回で大泣きした小学4年生ですら考えたわ




長門さんは疑惑の次の次の作品、赤い衝撃にも出演
高知県出身で、貧しい漁師の子供から大山産業の社長にのし上がった大山豪助(中条静夫
その豪助の秘書・北川和彦を演じた
豪助は、高校陸上界から期待されていた短距離走選手・大山友子の父
ある朝の自主練習の最中、背広姿の青年・新田秀夫が助言をして来る
それが運命の出会いとなったが
豪助が昔、現在は新田雄作(田村正和の長兄・高廣)の妻・文子(南田洋子)に手を出し
それが知れた際、またまたモモエちゃんと友和さんとの異母兄妹騒動が起きる展開を迎えた
友子の母・鈴代(草笛光子)が、心細い時に北川と出会い、支えられ、結婚の約束までしていた事が知らされ
つまり、秀夫:豪助の子、友子:北川の子と、血縁関係は持たない事が証明され
豪助の長女・イケズな行かず後家姉さん(疑惑では、光夫の母を演じた原知佐子)の嫌味炸裂するも
姉さんは、男に騙される直前の自分に危機を救った友子と和解し
いろいろ拗れた関係を乗り越え、友子の熱意に打たれた文子は、秀夫との結婚を許し
この作品では全面的に、安堵の胸を撫で下ろした小学6年生であった




鈴代が豪助の後妻に収まったのは
「北川が豪助の身代わりとなって刑務所へ行く事となり、頼れる人いなくなったため」
豪助は自分が原因の一つを承知していたので、全てを知った上で鈴代を後妻としたわけ
ホント、ご主人様に問題多いと、従僕は苦労するものである




長門さん自身を見ると

妻の女優・南田洋子は、大映から日活に移籍して長門裕之の同僚となった。当時、南田洋子がすでに“大物女優”であったのに対して、長門裕之はまだ“駆け出しの俳優”であった。南田洋子は、日活の専用車で自宅まで送り迎えをしてもらう身分であった。その頃、偶然、南田洋子の自宅と長門裕之の自宅が同じ方向であることが分かり、運良く長門南田洋子を送迎する車に一緒に乗せてもらうことになった。長門はこのチャンスを生かし、毎日車の中で南田洋子に猛アタックをし続けた。その結果長門は、憧れていた格上の南田洋子の“彼氏”になることができた。

長門裕之はプライドが高かったため、交際していた南田洋子より自分のほうが年収が低いということに、“引け目”を感じていた。そのため長門は、自分の年収が南田洋子の年収より多くなるまでは南田洋子と結婚しないと決め、仕事に励んだ。長門南田洋子と結婚したのは、自分の年収が南田洋子の年収を上回った1961年のことであった。

妻・南田洋子が出産適齢期だった頃、夫婦で『ミュージックフェア』の司会を長年続け、“おしどり夫婦”と呼ばれていた。そのため長門は仕事を優先させ、南田洋子との間に子供をつくらなかった。そのことについて長門はテレビ番組のインタビューで、「妻を妊娠させて番組を休ませるなんてことは考えられなかった」と述べている。

南田の介護の様子はテレビで公開された(『報道発 ドキュメンタリ宣言』第1回、2008年11月3日、テレビ朝日)。小型カメラ2台などにより、生々しい介護の様子、日常生活が明らかとなり反響を呼んだ。視聴率は関東で22.9%、関西で20.6%、瞬間最高視聴率は27%と2008年のテレビ朝日放映番組1位の視聴率を獲得。

2009年4月1日、南田が認知症悪化による意識混濁の状態となり、自宅から都内の病院に緊急搬送され入院。その後長門本人より、南田の病状について会見を行う。「意識は行ったり来たり。このまま植物状態になったらどうしよう、とも考えていた」と、長門は涙ながらに苦しい心境を語った(その後南田は4月18日に一旦退院していた)。5月に手記『待ってくれ、洋子』(主婦と生活社)を刊行した。

困り者のご主人様、忠実な従僕の両方を演じた
1934生まれ夫と1933年生まれ妻が、1961年に結婚となると
妻は引退しなくても、1960年代の仕事量を減らし、子作り優先する時期だったと思う
その時期に、ミュージックフェア司会を始めたら、子供欲しければ厳しいよな




だっちゅうのに




1985年11月出版の‘洋子へ’
初版を回収し、問題箇所を書き直した改訂版を出したとはいえ
ちょいと旦那、憧れていた格上の彼女を嫁に貰いながら、オンナ関係でどんだけ嫁泣かせた?
「4年間、僕が介護する事で、僕の人生を蘇らせてくれて、人生観を変えてくれました」
ま~因果応報は受けたんで赦すけど
アナタの場合、ミフネ夫人と違って、嫁に謝り倒すのが筋道を、あの世でも実感して頂戴よね
南田さんには、あの世に於いても格上を発揮し、楽しく暮らせるを心より祈るばかり