mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

記憶が五里霧中になる前に

17分前の前記事から続いた




同時期に同病院で生まれた赤ん坊2人のその後を追った、‘金髪のヨハネス ナチにさらわれた子供たち’





少年時代には目の覚めるような金髪だったヨハネス・ドリガー氏
ミュンヘンに在住する、(NHK放送当時。この後も同じ1997年当時のまま)54歳の国家公務員
30年来連れ添うエディット夫人と二人で、5歳になる孫のマティアス君を育てていた




ドリガー家では不幸の連続だった
10年前の夏、長女ペトラが自ら命を絶った
その後、マティアス君の母親である次女が出産後、2年前に家出する
家族が次々と離散する中で、ドリガー家では、もう一つの大事件が起こっていた
5年前のある日、エディット夫人が、夫の古い友人から夫の本当の名前を初めて知らされた
オットー・アッカーマンという名前は、ドリガー氏自身も知らない名前だった
夫妻が赤十字へ問い合わせると、更なる意外な事が回答として返って来た
「オットー・アッカーマンは、ドイツ軍兵士とノルウェー人女性の間に生まれた後
Lebensbornで育てられ、そして戦後、ヨハネスと名前を変えられ養子に出された」




ヨハネス・ドリガー氏の実父、同名のオットー・アッカーマンは、22歳でノルウェー駐留したドイツ軍兵士
シエンという都市で、ノルウェー女性ソルヴェイグ・ヴィーガスと交際を始めた
オットーの弟エーリヒの推察では、「親父に叱られると思って、彼女をなかなか実家に紹介出来なかったのかな」
そうこうするうちに、1942年4月、オットーに、シエンからオスロへの移動命令が下り
ソルヴェイグがオットーの後を追い、単身オスロへと向かった
ドイツ兵の子供を妊娠している彼女を見る周囲の視線は冷たく、家族の中でさえ孤立していたからだった
ソルヴェイグは、オスロで恋人と再会するも、出産間近となった1942年9月10日、オットーに再異動指令が下り
彼は行き先も告げぬまま、翌日ノルウェーを後にした
ソルヴェイグはやむなく、人目を避けて出産する施設であるLebensbornを訪れ、息子を出産
この時点では、オットーと縁が切れたわけでなかった
戦地にいるオットーから認知状が届き、父親と同じ名前が付けられた




縁が切れたのは、母親と息子であった
第三帝国を担うエリート誕生させる目的を持つLebensbornの非情な掟により
母親はすぐに僕から引き離されてしまったようだ
知人によれば、母はこの病院で、たった一度だけしか僕を抱く事が出来なかった
最後に僕を見たのは、人目を忍んでドアの隙間からだったという」
小さなオットー・アッカーマンはその後、母親の顔を知る事も無く
戦争末期の1944年秋、オスロの港からドイツへと送られ
5ヶ所もの施設を点々とした後、アルプス麓の町の肉屋に養子として迎えられる
そこで、洗礼を受け、ヨハネス・ドリガーと名前が変わった
『金髪のヨハネス』の真実を知る養父母は秘密を胸に秘め、決して語ろうとしなかった
ドリガー氏が真実を知る術は?




旧東ドイツのコーレン・ザーリスにある精神障害者施設が、ドリガー氏の収容されていたLebensborn育児院
ドリガー氏が訪れた際、半世紀前の子供の頃の記憶は戻って来ないものの
若い所長が見せてくれた、倉庫に眠っていた古い写真、一様に硬い表情の子供たちを見て背筋が凍る
「ドリガー氏が偶然TVで見た写真に
悲しい顔をして俯いている男の子がドリガー氏、その隣には硬い笑顔の女の子がいる」
女の子が写真の持ち主で、現在ノルウェー在住のテュリッド・オムセットさん
ドリガー氏はその後、テュリッドさんと知り合い文通を始めた




テュリッドさんの場合、ドイツとノルウェーでそれぞれ里子に出された
ドイツの里親シュナイダー夫妻はよく世話してくれ、当時の家族写真にも実子同然の様子が見て取れる
しかし戦後、テュリッドさんも他のノルウェー系同様、連合国によりノルウェー本国へ送り出された
成人後、実両親に連絡を取ると、「もう忘れてくれ」と冷たい返事が届いた
父母双方、弾圧に遭い心に傷を負ったかもしれないが
子供にすれば、自分の人生に足りない何かを埋めるためなのに、ルーツを聞く対面さえ拒否されたのは辛い
自分の存在をを否定された格好のテュリッドさんを救ったのは、シュナイダー夫妻との再会であった
親交を再び深めるうち気づいたのは…「シュナイダー夫妻こそ、自分の求めていた『親』だという事よ」




小さなオットー・アッカーマンにも、救済がもたらされたのか?




息子が実両親の存在と彼らの素性を知ったのは、NHK番組放送の4年前であった
ドリガー氏は、自分の出生の秘密を知る前から、自分の心の中に得体の知れない記憶を感じ続けていた
「家族に起きる悲劇は自分と何か繋がりが?娘たちを孤立させたものは自分の過去と関係があるのでは?」
仕事も家庭も順調に進み、慎ましくも堅実な暮らしの中、娘たちの成長が楽しみだった
ところが、長女は自ら命を絶ち、次女も恋愛問題がこじれ子供を置いて家出した
エディット夫人によれば、ドリガー氏には、良き父親ながらも心の壁のようなものが立ちはだかっていたという
長女の死を契機に、自分と向き合うようになった
内向的な性格、少年時代には汽車の音を聴くと怯えていたのは、「乳児といえど、物事の認識を持つ」
ドリガー氏の特徴は恐らく、実母から引き離された衝撃に起因すると指摘され
自分の半生が負の連鎖の根源に揺り籠時代の経験を知り、ドリガー氏はルーツ探しの旅へと出た
その1年前、実母は他界していた
もう少し早くドリガー氏の身元が判明していれば、テュリッドさんのような拒絶でなく、再会を果たせた?




ソルヴェイグに子供がドイツに送られる事は知らされなかったので、当局に手紙を送り抗議した
戦後、必死の思いで息子を探し出してドイツまで追いかけたが、養父母に追い返されたようであった
大きなオットーの弟エーリヒによれば、「ノルウェーで好きになった女性と結婚したいとは聞いていた」
オットーの再異動先は、行方不明になったドイツ兵多数出た東方戦線
「1945年1月28日、戦場で両足が凍傷になり壊死」とまでは記録に残るが、戦死したが消息不明の1人と思われる
ラトヴィアでの戦死は確定出来なかったが、法律上は戦死扱いである
その事をソルヴェイグは知らなかったため、どうやら恋人に捨てられたと思い込んだよう
1950年代後半になって、諦めがついたのか、同国人男性ヨハンセン氏と結婚したとの事




「自分の心の根拠に地を求めて、そこに立つ事で心安きを得る」
「そして、過去を物語として見る事が出来る」
シュナイダー夫妻と再会して自分の求めていたものを知ったテュリッドさんの言葉である
自分のルーツを探して旅に出たドリガー氏も
両親は不幸にして生き別れたが、自分は野合などではない真面目な恋愛関係から生まれた子供である
「同胞と祖国のためなればこそ、父は恐怖を感じ、死を予感していたでしょう」
父が最期を迎えた地と思われる湖に到達し、生き延びるための戦い、飢え、痛み、恐怖、寒さを想像してみて
母の実家を訪れ、大勢の親戚に迎えられ、伯母アンナ・リストさんから家族の一員として受け入れて貰え
母の墓前に立った時、ようやく旅の終わりを迎え、過去の物語化脱稿したのだと思う




NHK番組は、2009年、BS開始20周年記念番組の一つとして取り上げられたが、この時、その後の補足として
「番組後、ドイツで‘金髪のヨハネス’という本を出版、昨年の5月に他界」
ルーツ探しの旅、それを総括し後世に残す役割担うTV番組と著書、間に合って良かったというか
「ジジが長期間出かけるというと大泣きして悲しんでいたのは、母親に置いていかれた事が甦ったのだろう」
孫の泣きじゃくる姿が
「汽車に乗ると何処かに連れ去られるのか?と、怯えて泣き叫んだ自分の幼少期と重なった」
ドリガー氏の心情をを思うと
本放送当時5歳だった孫のマティアス君が、2009年には身長180cm越す高校生となり
エディットお祖母さんと和やかに並ぶ姿の写真は泣ける




当記事題名に、Yahoo!Days日記題名使い回した理由
‘私のお父さんは誰ですか’
http://www.telecomstaff.co.jp/blog/info/000181.php
フランスがドイツに占領されていた第二次大戦中
20万人もの子どもたちが、父親を知らずに産まれた
その子たちは、“ドイツ野郎のこども”とさげすまれて生きてきた
母に捨てられ、出生の秘密を抱えながら…
愛することが罪だった時代だった
あれから60数年
子どもたちは父親を捜し始めた

『私のお父さんは 誰ですか ~フランス・戦争の落とし子たち~』
NHKBS1 2007年8月19日(土)23時10分~放送
ドイツ人父親と対面、向こうにも喜んで貰えたフランス人娘
「子供には自分の『存在意義』を知る権利がある
子供が父親の居場所を知りたいというならば、母親は教えなければならない
母親が辛い思いをしたからといって、子供の権利を奪う事は許されない」
60歳娘の夢が、80歳を超えた高齢の父が亡くなる数ヶ月前に叶ったのは、母親の英断によるおかげだった
…「正当な理由以外で子供会わせない会わない離婚親は全員シネ」、アタシの鉄の信念の理由わかった?