mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

虚栄渦巻く仮面舞踏会の果てに、写実世界が映し出される

元々は2010年2月10日と翌11日のアメブロ別荘記事を加筆修正し、Yahoo!本館では一本立てにしてみた




この間、米国で、娘の駆け落ち相手家族の殺害を企てたタクシー運転手いたんだっけ?
米国は大英帝国が放逐したピューリタンが居座った国とあって、意味不明なまでに保守的な側面を持つ
タクシー親父も、いわゆる『名誉殺人』に分類されるのやら
別のカーストの相手と結婚して共同体全体を「侮辱した」として家族に殺されたり、自殺に追い込まれたりする
インドの他に、不義密通には石打ち刑を科す(現代ニッポンに導入を祈願中)、アラーの神さん管轄地域でもね




西欧とて、シチリア辺りに『名誉』への異常なまでの執念が見られるわな




マスカーニの♪カヴァレリア・ルスティカーナ
『田舎の騎士道』みたいな意味ね




シチリア島のある村。復活祭の朝。トゥリッドゥはかつて美しい女ローラの恋人であったが、ローラは彼の兵役中に馬車屋のアルフィオと結婚してしまったのである。除隊後帰郷したトゥリッドゥは、いったんはローラを忘れるべく、村娘サントゥッツァ(サンタ)と婚約したが、結局は留守がちなアルフィオの目を盗んでローラと逢引を重ねる仲に戻ってしまった。これはサンタの知るところとなる。サンタは怒りのあまり、そのことをアルフィオに告げてしまう。アルフィオは激怒し復讐を誓い、サンタは事の重大な展開に後悔する。

ここで場を静めるかのように静かに間奏曲が流れる。

教会のミサが終わり、男たちはトゥリッドゥの母ルチアの酒場で乾杯する。アルフィオはトゥリッドゥの勧めた杯を断る。二人は決闘を申し合わせ、アルフィオはいったん去る。トゥリッドゥは酒に酔ったふりをしながら母に「もし自分が死んだらサンタを頼む」と歌う。トゥリッドゥが酒場を出て行きしばらくすると「トゥリッドゥさんが殺された」という女の悲鳴が2度響き、村人の驚きの声と共に、幕。

Wikipediaカヴァレリア・ルスティカーナより引用 )





…と書けば、ただの痴情のもつれであるが、これらの真相は表面には現れないが恐らく…




ローラこそが、トゥリッドゥの「真の連れ合い」
しかし家父長絶対的世界の中で、ローラの家と馬車屋との間で親同士の合意による結婚が執り行われた
村人たちはそれを承知のため、暗黙の了解でローラをかばっていた
サントゥッツァの存在?。「教会行かずに淪落した、自業自得の女」と旧態依然な価値観で排除すればいい
トゥリッドゥは、サントゥッツァの立場を理解しているだけに
ローラへの想いを断ち切れず、サントゥッツァを追い込んでいる自分に腹立たしい思いを抱えている
それらは、俗世の名誉に凝り固まったアルフィオなんかには理解不能




サントゥッツァは、小説では脇役的存在だった
戯曲では、トゥリッドゥと一旦は相思相愛となり、その子までを身篭ったにもかかわらず、捨てられた
復讐として告げ口をし、やがて後悔に苛まれる、という演じ甲斐のある役回りに深化された








"Mamma, quel vino è generoso" Domingo - CAVALLERIA RUSTICANA
1982年のフランコ・ゼッフィレッリ監督映画版より、♪お母さん、あの酒は強いね




最近は、バリトン役を歌い、ボチボチ後期高齢者やろ引退せえへんのかいのプラシド・ドミンゴ
1976年の第8次NHKイタリア歌劇団公演当時、35歳。若~。20年ほど前にNHK-BSで観た時、大爆笑したわ
オンナの琴線触れる泣きの入る歌い方、どーも好かん(セスク似のホセ・カレーラスなら、別の話)
もっともトゥリッドゥが20歳を出たばかりくらいの青年を思えば
自分の腑甲斐無さが招いた悲劇に苦しみ、死の覚悟決めるも、往生際悪さ示すには
ダサイけど可愛さ持つ風貌ともに向いてるかもね




シチリアは現代でさえ、イタリアに於いてもとりわけ旧弊な価値観を維持しているよう
隣近所が、ここは旧東ドイツかい的相互監視社会の感じ
娘や妹をキズモノにされたら、一族の野郎どもがオトコを十重二十重に取り巻く勢いと思われる
名誉を重んじるあまり表に出ないだけで、決闘は続いていたりして




ところで、♪カヴァレリア・ルスティカーナといえば、1時間半にも満たない上演時間なので
同じくらいの長さであるレオンカヴァッロの♪道化師と2本立て上演が一般的である(で、一記事内二本立てに)




時と場所 1865年頃、南イタリアカラブリア地方のモンタルト村。8月15日の聖母被昇天祭日の午後に始まり、同夜までの出来事。

力強い前奏曲に続いて、まだ下りた幕間から舞台で用いる仮面を付けたトニオが登場。舞台の上では道化を演じる我々役者もまた血肉をもち、愛憎を重ねる人間であり、それを想った作曲者は涙してこの曲を作ったのだ、云々との前口上(プロローグ)を述べる。

第1幕:祭日ということで着飾った村人たちが待ち焦がれる旅回りの一座が、座長カニオを先頭にやってくる。カニオは「今晩23時か ら! 忘れずに芝居を観に来てくれ」と宣伝し、ベッペや村の男たちと居酒屋に繰り出す。他の村人たちは教会の礼拝に向かい、独り残った若いネッダは自由な生活への憧憬を歌う。物陰に潜んでいたせむしのトニオがかねて想いを寄せていたネッダに言い寄るが、手ひどく鞭で打たれ、逃げ出す。入れ違いに村の青年シルヴィオが現れる。実はネッダとシルヴィオは相思相愛の仲で、一座がこの村に寄るたび、逢瀬を重ねていた。2人は駆け落ちの相談を始める。それを発見したトニオ は、仕返しの好機とばかりにカニオを呼んでくる。ネッダがシルヴィオに「今夜からずっと、あたしはあんたのもの」と言うのを聞いてカニオはついに逆上、シ ルヴィオは慌てて逃げ出し、ネッダは情夫の名をカニオに明かすのを拒む。大騒ぎを聞きつけてベッペも戻ってきてカニオを鎮め、芝居の仕度を促す。カニオ は、怒りも悲しみも隠して道化芝居を演じ、客を笑わせなければならない役者の悲しみを歌う。

美しい間奏曲に続いて第2幕:村人がお待ちかねの芝居が始まる。ネッダ扮するコロンビーナが恋人アルレッキーノを待ちわびているところへ、下男タッデーオが現れ言い寄るが、あっけなく蹴り飛ばされ退場。アルレッキーノとコロンビーナがやっと逢引を始めるところに、タッデーオが「パリアッチョが帰ってきた!」と急を告げる。パリアッチョを演ずるカニオは、コロンビーナが逃げ出すアルレッキーノに向かって「今夜からずっと、あたしはあん たのもの」と言うのを聞いて、それが先ほどの現実世界と同じ台詞であることに混乱し、芝居と現実との見境がつかなくなっていく。「情夫の名を言え。おれは もう道化師ではない」と叫ぶカニオの迫真の演技に、村人は拍手喝采する。ネッダは危険を悟り逃げ出そうとするが、カニオは彼女を刺殺し、ネッダを助けよう と舞台に上がってきたシルヴィオもまたカニオに殺される。村人たちが大混乱の中、カニオは「芝居はこれでおしまいです」とつぶやいて、幕。

Wikipedia道化師より引用 )





ネッダは、幼い頃母親と死別して道で行き倒れになっていた所を、カニオの旅回り一座に救われた
衣食住の心配無くなり、芸を仕込まれ、成長すると座長の嫁に貰われた
命救われた恩義は忘れていないものの、オンナとしては、辛気くさいオッサン亭主との生活なんて空虚過ぎる
「鳥のように空高く飛び自由に舞いたい!」




Mario del Monaco interpreta Vesti la Giubba de la ópera Pagliacci de Leoncavallo.En Tokyo en 1963
妻の不貞に、カニオは激怒のあまり半狂乱。だが、彼は、道化師。「お客が待っている。仮面をつけろ」
芝居でのカニオの役回りは、寝取られ亭主。状況は台詞も含め、カニオ自身とまるで同じ
芝居と現実との見境がつかなくなってしまう








ドミンゴテレサ・ストラータス、この二人は映画版でも共演した
Pagliacci Full movie. Domingo - Stratas - Pons, Zeffirelli
『道化師』1幕 ストラータス J.プレートル指揮 (1982年 映像)
この演出には確か、ネッダが小さな子供の身体洗ってやる場面あった
旅回り一座団員の子供、カニオとネッダ夫婦の子供、どっちなんだろ
ネッダが子持ちに関係なく、汚嫁に変わりないけど…




「愛してくれなくても、憐れみくらいは欲しかった…!」
仮面が剥がれつつあるカニオが、自分の不満を漏らしたネッダにそう訴えかける
…「カニオがネッダを『女』として認め、女として愛していたら」、ネッダの心も違っていた?




「芝居はこれでおしまいです」(La commedia è finita)
トニオが歌うのが本来の原曲の形だった
今日では、カニオが台詞として語るのが一般的な上演形態になっている
同じ道化師でも、舞台上と舞台裏の芝居両方の主人公であるカニオが相応しいんでないかい