mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

彷徨える希望の峰 第三幕

第二幕から続いた




急に話飛ぶけどさ




「この物語をモチーフにして、設定を現代に移して後日談を描いた映画がある
1951年のイギリス映画『パンドラ』で、エヴァ・ガードナーとジェームズ・メイスンが出演した」
さまよえるオランダ人について説明するWikipediaの記述よ
初耳なので、アレコレ検索してみると

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若い頃のジェームズ・メイスンなかなか男前だったのねと感心しといて




パンドラは恵まれた境遇にありながら男にはいたって冷たく、恋の世界からだけは遠い女性
しかし彼女はその冷たさに死者まで出ると、結婚して青春に終止符を打とうと決心する
ある夜、土地の湾に真っ白なヨットが入って来て、好奇心からパンドラが泳いで行くと
中にはオランダ人ヘンドリックだけが乗っていて、まだ見た事も無いはずのパンドラの肖像画を描いていた
二人は最後、愛を誓い合う
パンドラが婚約者を捨て、ヘンドリックのヨットに再び泳ぎ渡った時、突然起こった嵐が船を沈めた
かくてさまよえるオランダ人は、死よりも強い女の愛によって、初めて永遠の中に生き帰ったのであった




…上手く言えないんだけど
「オランダ人とゼンタの役割が曖昧で、お互いに救済を与えている」
と感じない?
ヘンドリックにね、肖像画を胸に抱いて離さないクプファー版ゼンタが重なるんだわ
女性の名前がね、『パンドラの箱』を考えれば、映画の結末がメッチャ興味深く感じるし




【黄昏るが故に、「Heil dir, Sonne ! Heil dir, Licht ! (太陽と光に祝福を)」】
https://blogs.yahoo.co.jp/borussiamagdala/33920807.html

そーでしょ?

第一幕では、「死ねるんやったら、どんなオンナでも構わへんわ」
7年ごとの裏切りに、もう救済を諦め半分以上
死ねるとして、絶世の美女でなくたって妥協する
オンナなんて光り物好きや、金銀財宝で釣り上げたれ
そんな厭世野郎であったはず、過去のオランダ人は

ところが、第二幕では、「このギャルに救われたい」
何なのよ、この平身低頭ぶりへの変身傾倒ぶりはさ
彼は、ゼンタが初対面の旅男にビビリもせずを見ると
「ワタクシに従えば、アナタは若さから何から全部犠牲にせねば
拙者のような甲斐性なしでも、愛情を捧げて下さいますでしょうか~」
てな気の遣いようまで見せる

第三幕に至っては、「アナタが免れた恐ろしい運命を教えたる」
オランダ人は裏切りオンナを地獄落ちにすれば
幽霊船を出帆させ、「7年待たなアカンけど、次行こう、次」に行ける
なのにオランダ人は自らの救済を永遠に諦め、ゼンタを救おうとする
時機を得たのか、ゼンタが、オランダ人を受け入れる真の乙女であり
おかげ様で、遂に呪いは解かれ、メデタシメデタシを迎えるけどね

一昨日( * 2013年8月27日)、FC2別館に、【さまよえる独逸魂のバラード】
その中に、♪さまよえるオランダ人について
「オランダ人の救済は、ゼンタの自己犠牲でなく
男のエゴ捨てたのが、乙女の殉愛を決定づけた
目に見えるギャルの飛び込みでなく
野郎自身が自己を克服した」

旧東ドイツ出身演出家ハリー・クプファーが
1988~1992年バイロイトでの♪ニーベルングの指環において
細かい内容忘れたけど、「男のエゴが、世界の破滅を招く」
と説明していたのを読んだことある

ですやん




男のエゴ捨て去り、自己を克服により、男が自分自身を救済するんだったら
女のエゴ捨て去り、自己を克服により、女が自分自身を救済するも然り…ちゃう?
クプファーはいろんな演出に於いて、女を甘やかさないが、男を甘やかしもしない
男にばっか厳しく、女にはお手盛りで甘い、田嶋陽子シバキ倒したれの糞フェミとは雲泥の差だ





さまよえるオランダ人が作曲された19世紀前半の社会基準で考えてみると
「糸をぎもせず、男たちが帰って来るのに食事の支度もせず、肖像画の男にボケ~と過ごす」
ゼンタは乳母のマリーや他の娘たちから見れば、怠け者である
そんなゼンタを、物を書く感性豊かな女性と同一視し、陰から優しく見守る男の文章を読んだ事がある
ゼンタもまた、オランダ人同様、現実世界と合わぬ苦悩を抱える意味よ
船乗りの娘が、りょうしはリョウシでも漁師じゃなく猟師を恋人に選んだ点からも
平々凡々たる娘じゃない事が知れる
「非凡な者は平穏に生きられない代償を払うかもしれない」
「平凡な者なら平凡に徹しなさい」
女が学問や資格、職を持って、男頼らず自立する事だけがフェミニズムじゃないも示す




ところで

2016年3月6日(日)
指揮:沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)
演出:ミヒャエル・ハンペ
装置・衣裳:ヘニング・フォン・ギールケ
照明:斎藤茂男
音響:小野隆浩(公益財団法人びわ湖ホール
舞台監督:幸泉浩
合唱:二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
管弦楽京都市交響楽団

という上演が、一昨年に行われた
某所の感想記事に、アタシゃ↓

ギールケといえば、バイエルン国立歌劇場1992年日本公演のオランダ人を演出してましたね
ギールケは自然の表現を大事にし
「自然の中からから生まれ出て、あるいは現れ出て、再び自然のもとへ還って行く」
オランダ人だったら、海、あるいは水が、大切な自然で
「そこで幕が下りるため、オランダ人救済の先がどうなるかはわからない
全てが変わりつつあり、水の中から命からがら救われるも考え得るが
海から地上になり、それからゼンタが飛び込んだのは海で
それがオランダ人にとっては地上へと跳んだ事も意味する」




永遠に絶対的な答が見つからないほど
さまよえるオランダ人が一筋縄に行かない物語というのは、皆様にもわかっちゃったよね