mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

楽の調べを新世界より

まぁ、戸田恵梨香からキャスリー・バトルへ飛んでく展開、フツーは思いつきませんわな

最近、アメブロ別荘にての好き勝手ダラダラ(と、Days)が、一番盛り上がるのさ

 

アメリカ合衆国オハイオ州ポーツマスに7人きょうだいの末子として生まれた。子供の頃から歌唱力に恵まれていたが、優等生で将来を高望みしてはいなかった。奨学金を得てオハイオ州シンシナティ・カレッジ音楽院に進み、声楽家になる冒険をせず音楽教師の職に就いた。

1971年に修士号を取得し、シンシナティ市内で児童の指導を開始。その間にも個人的に声楽の研究を続け、シンシナティ交響楽団首席指揮者のトーマス・シッパーズのオーディションを受けることになった。まだほとんど経験不足だったにもかかわらず、シッパーズに感銘を与えて、1972年にイタリアのスポレト音楽祭に出演する機会をつかむ。~

(大賢者様の『キャスリーン・バトル』より)

 

メトロポリタン歌劇場に雇われたのは、30歳頃

盛りが長い部類でない軽い声質を考えると、決して早くない

誰にでもニコニコして頭を下げ、地道にキャリア重ねた

 

ワルツ堂映像担当いわく、「どこかで勘違いしたんやろ」

売れるにつれ、ワガママ通るようになる。ただし、許容範囲の線を越えない限り

一つ弁護するなら、音楽監督ジェームズ・レヴァインも悪い

同じオハイオ州出身のよしみから、ピアノ伴奏を買って出る他どんだけ甘やかしたのよ
二度と共演を望まないと言って憚らない?ちょいと音楽監督

 

個人的に好きなのは

 


 

MET隣にあるニューヨーク・シティ・オペラの女王様であったビヴァリー・シルズ

娘役にはオバハンすぎる容姿ながら、舞台に立つとパッと華やか、観ていて楽しくなる

旦那との約束により、50歳の若さで現役引退。NY中のファンが惜しんだそうな

 

~引退後は、1991年までニューヨーク・シティ歌劇場のゼネラル・マネージャーを勤め、当時経済的に苦境にあった同劇場が、企業として独立できるように尽力した。1994年から2000年までリンカーン・センターの会長を務めている。数々の芸術問題や、慈善団体“March of Dimes”による福祉事業にも献身を惜しまなかった。2002年にメトロポリタン歌劇場の委員長を務めるために復職したが、2005年1月に家庭の事情により辞職した。それまで8年にわたって彼女が老人ホームで介護を続けていた夫を喪ったからである。~

(大賢者様の『ビヴァリー・シルズ』より)

 

ついでに

 

イメージ 1

 

バトルに感銘を受けたシンシナティ交響楽団首席指揮者のトーマス・シッパーズ

セスクと似てる気するの、アタシだけ?

 

 

1967年の♪ワルキューレ日本初演3回中を2回だけ、NHK交響楽団とケンカのためは置き

(この映像も、シッパーズ指揮かどうかはわからん)

 

ハリウッドスターを本気で目指したイケメンから、1950年代にMET指揮者入りするも

当時の総支配人は、欧州の名指揮者に大枚はたく主義、米国の若造は冷や飯食い

1970年にシンシナティ交響楽団常任指揮者の地位を得て

同楽団とは数回録音を行い、国際的な名声を築き上げたけど

1977年に肺癌のために急死し、短い生涯は悲劇的な幕切れを遂げた

 

1976年のクリスマス頃、NY社交界花形出身美女であった嫁がわずか34歳の早世

シンシナティ市民が後に泣いたのは、病身の嫁がマダムの役割を最期まで果たしたこと

米国の楽団シェフ夫妻は、特に中小都市の場合、町の名士

米国初の黒人シェフが白人の嫁もらったのは、聴衆との橋渡しお願いします大きい

それくらいマダムの存在は強力であり、NY社交界出身はコツを自然に心得ていた

で、最後の力振り絞って病院から抜け出し、楽団主催クリスマス会のおもてなしを務めた

死期間際を客人の誰にも悟らせないまでの明るい笑顔の別嬪さんぶりをもって

 

シンシナティ交響楽団が感謝したのは、上層中流出身シッパーズの大いなる遺産

子供いなかったから、「愛するシンシナティ交響楽団へ」の書類を遺した

どっかの因業な極東島国と違い、米国の税法は寄付には非課税(当たり前じゃ)

ご無体な極東経済力の影響から不況に陥っていた当時の米国だけに

経営難に苦しんでいた楽団は存続の危機から救われたのですよ