mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

桜の枝から揺さぶられ、可愛がって下さいねとばかり蝶よ花よと舞うには…

前記事のおまけ記事よ




渡辺葉子さん死去/ソプラノ歌手
2004/07/16 12:58

 渡辺 葉子さん(わたなべ・ようこ=ソプラノ歌手)15日午前7時30分(日本時間)、心不全のためイタリア・ミラノの自宅で死去、51歳。北九州市出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 東京芸大卒業後、イタリアに留学し、ミラノ・スカラ座付属研究所を修了。78年にオペラデビュー。日本人ソプラノとして初めてスカラ座ウィーン国立歌劇場など「世界四大歌劇場」のすべてで主役を務めた。日本でも85年に藤原歌劇団の「蝶々夫人」などの舞台に登場。99年、日本での公演途中に体調不良で降板、療養を続けていた。

http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20040716000227 )




1990年代の音楽雑誌インタヴューに、米国領事館の太っ腹に感謝が載っていた
蝶々さんでメトロポリタン歌劇場デビューが決まり、両親を招待するまでは良い
高齢を考慮した無理ない日程を組むには、ヴィザ申請が大きく影響するのが面倒であった
1987年だか翌年だかの12月、規制緩和されたが、ほんの2日ほど早く渡米するだけで手続きが煩雑になる
そこで物は相談と、娘が領事館に赴き、両親の渡米理由についてコレコレ云々と説明した結果
「METデビューとは素晴らしい♪ご希望の日のスムーズな旅を保証しますよ☆」
旧ルールの日に新ルールで行けるよう太鼓判押してくれたとの事
…明治中期のシャープレス領事と対照的に、昭和末期の領事は有能だったようね
入国申請にSNSアカウント紐付け要るとか都市伝説生まれる、平成末期?のトランプ国とは雲泥の差である




渡辺女史の活動した歌劇場として、スイスのチューリヒ歌劇場も挙げられる
座席数1000人強かしら、小さ過ぎず大き過ぎず、音響効果も良い空間を、女史が初めて確認した時
「ここなら、ワタクシもテバルディになれるかしら」と期待したそうな


全日本プロレスが女装したみたいな、身長180cm超え歌姫に?
Franco Corelli & Renata Tebaldi: Già nella notte densa (1973)
タイツ姿似合う長身であったフランココレッリに負けず劣らずだけど!




蝶々さんを過不足無く歌い演じる力量がハンパ無いを言いたいの




色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。特に第2幕のアリア「ある晴れた日に」は非常に有名である。反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い(第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ)ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「ソプラノ殺し」の作品とも言われる。

Wikipedia蝶々夫人より引用 )

トスカも似たり寄ったり、オケが怒涛の如く押し寄せる箇所で、中音域が分厚くなる
プッチーニのヒトデナシ~と絶叫したいくらいよ
蝶々さんの場合、長丁場とあって、録音しても舞台未経験のソプラノいる
まだ15歳の少女という設定なので、ソコソコ熟練した歌手が「15歳で~す」と答える場面では
「51歳の間違いやろぉ」、客が含み笑いの展開あり得るし、そーいう実話聞かれたほどだ





欧米各国での活躍

1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。

1915年のイギリス・デビューの成功を受けて1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『あやめ』をニューヨークやサンフランシスコ、シカゴで演ずることができた(三浦環メトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である)。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年モンテカルロバルセロナフィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた。

1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島パレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した。

評価


作曲者自身から激賞されたように「蝶々さん」が当たり役であり、その正統的で模範的な演技で評価された。少女時代に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことができたといわれている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーやヤン・パデレフスキといったスター芸術家とも共演する。

三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニ銅像とともに長崎市グラバー園に建っている。

Wikipedia三浦環より引用 )

蝶々夫人』出演2000回の記録を達成というけど、一説には、アリア歌唱回数もカウントされるらしい
功成り名を成した活動期間、海路と陸路が主体の時代の移動方法を考えてみて
仮に蝶々さん専門としても、2000回なんて舞台で歌える数字じゃない
また、2000回も歌ったら、確実に声を壊すわよ




トゥーランドット、リューと並んで、登場人物の出身地が東洋と指定される
日本人は無論、中国人、韓国人、とにかく亜細亜系ソプラノにとってウマーと有難い役柄である
とはいうものの、求められる力量はワルキューレ級、戦艦みたいなワーグナー歌手級のもの
そんじょそこらの歌手が問答無用のバタフライ歌いとして成功収めるのは至難の業
オランダのリート歌手エリー・アメリンクによると、日本人は特に厳しい
感情表現面に於いて、内向的なため、外へ向かう中国人や韓国人と比較して不利も指摘出来るが
高音域はいくらでも出るが、中低音域が弱い、それが声楽面の課題という
「中音域の支えがあってこそ、安定して輝かしい高音域が生まれるんですけどね」




昔年を思えば、日本人歌手の技術は向上し、世界を席巻する戦艦ソプラノが出現する可能性持つ
しかしながら、諸刃の剣的な役柄を、それなりに歌えるからとホイホイ食いつくのは考え物
蝶々さんの呪縛に負けないのが身のためでしょね
欧米人との先天的身体能力差を克服するのが難しくとも
己の無能を「日本人には日本人のやり方が~」てな逆優越思想にすり返るサッカー選手
ちょこっと海外クラブで良い数字出した程度の青いフナ侍みたいにはなるなよ