mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

さようなら、故郷の家よ。訣別すべき過去を与えてくれた事に感謝しながら

都合上、更新が先ゴメンしてね
【神々の黄昏を奏でた皇帝円舞曲を持ってしても、不可触の領域が存在する】のオマケ記事よ





結婚まで

1971年、バスク系・イタリア系アルゼンチン人のホルヘ・ソレギエタ(Jorge Zorreguieta)と、2度目の妻でバスク系アルゼンチン人のマリア・デル・カルメン・セルティ・カリカルト(María del Carmen Cerruti Carricart)の娘としてブエノスアイレスで生まれた。父が先妻との間にもうけた異母姉が3人、同母兄2人と同母姉1人がいる。父ホルヘは裕福な農場経営者で、ホルヘ・ラファエル・ビデラ政権時代に農林大臣を務めた。1995年にアルゼンチン・カトリック大学(Universidad Católica Argentina)で経済学の学位を取得し卒業した。1999年、ニューヨークで銀行に勤めていたマクシマは、友人主催のパーティーのあったセビリアのバルで、親戚に紹介された女性と一緒にいたウィレム=アレクサンダー王子と知り合う。この時、マクシマはウィレム=アレクサンダーに王子とは知らずにカメラを向けたため「失礼だぞ」と制止されるも、王子と同行していた女性を「そんな美人じゃない人と一緒にいて」などと言うなど、物怖じしない対応をしたという。

2000年頃、2人の交際が公けになり、オランダ国内で大きな議論を巻き起こした。マクシマの父ホルヘが、軍事独裁政権であったビデラ政権の閣僚であったことが問題視されたのである。無実の市民の大量虐殺を引き起こした政権の実力者の娘と、次期王位継承者との結婚を許していいものか、もし結婚を選ぶなら王位継承権を放棄すべきだ、との世論が巻き起こった。結局、ホルヘは大量虐殺には一切関与していなかったとの結論が出された。

2001年1月31日の女王ベアトリクスの誕生日、女王夫妻とウィレム=アレクサンダー、そしてマクシマが並んで写された写真が公表され、女王と王配クラウスが2人の結婚に賛成の意向を示していることを公けに示した。

国籍

2001年5月17日、マクシマはオランダ国籍を取得した。結婚前に外国人がオランダ国籍を取得することはオランダでは慣例となっていないため、この特別扱いは不満を引き起こした(通常の状況ではオランダの市民権を得るのには最低5年かかる。しかし、王室の花嫁となるために必須であり、オランダの法律によって授けられている)。現在はオランダとアルゼンチンの二重国籍を持つ。

挙式の数日前、女王ベアトリクスによってマクシマはオランダのプリンセス(Prinses der Nederlanden)の称号と殿下(Koninklijke Hoogheid)の敬称を授けられた。

一般に考えられているのとは違い、マクシマはウィレム=アレクサンダーと同じプロテスタント(オランダ改革派)に改宗せず、カトリック教徒のままである(オランダの王位継承は、法律ではなく慣例として、カトリック教徒が君主となることを禁じている。これはオランダがカトリック教国スペインから八十年戦争を経て独立した歴史に由来する)。しかし、マクシマはウィレム=アレクサンダーとの間に生まれた3人の王女たちをプロテスタントとして育てることに同意している。

過去、ベアトリクス女王の妹であるイレーネ王女とクリスティーネ王女がカトリック教徒と結婚した際には、議会から承認が得られず、王位継承権を失っている。

オランダのプリンセスとして

マクシマとウィレム=アレクサンダーは2001年3月30日に正式に婚約した。テレビ放送された婚約会見では、マクシマはほぼ流暢なオランダ語を披露した。

2002年2月2日、アムステルダムのブールス・ファン・ベルラーヘ(Beurs van Berlage)で民事婚を行い、アムステルダム新教会(Nieuwe Kerk)にて宗教婚を執り行った。しかし、結婚の障害になりかけた妃の父ホルヘは式に招かれなかった。また、夫を一人残していけないとして、母マリアも挙式に欠席した。式中、アストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」(Adiós Nonino 「さよならお父さん」)が流れた時、マクシマは両目から大粒の涙を流した。

2003年に長女カタリナ=アマリア王女(現オラニエ女公)が誕生、2005年には次女アレクシア王女が誕生している。2007年4月10日、第3子となるアリアーネ王女が誕生した。

2005年、銀行で働いていた経験を生かし、国際連合の国際マイクロクレジット年におけるアドヴァイザーとなった。

LGBTの人権擁護活動を支援する世界でも希な王族の一人である。マクシマの広報担当は、「プリンセスは、オランダ国内の全てのグループが平等な権利を持つことに賛同している。」と述べている。

王妃に

2013年4月30日をもってベアトリクス女王が退位し、翌5月1日付でウィレム=アレクサンダーがオランダ国王に即位した。これによりマクシマは、エンマ王妃以来123年ぶりとなるオランダ王妃となった。

Wikipediaマクシマ・ソレギエタより引用 )




なお、ベアトリクス前女王は現在、王女の身分に戻ったんだって~
嫁と姑が喧嘩したら、姑が逆らえないんちゃうの?
足腰まだ丈夫なら、自転車飛ばして逃げろぉ
(祖母ウィルヘルミナ、母ユリアナに続き、自転車に乗って街まで買い物行く女王様であった
「自転車にも乗れない高齢となり、王宮に引きこもり状態になれば、国民との距離が遠くなる」
市民感覚持たぬ王室への不満を喚起する愚は犯さない』が、3代続けて元気なうちに引退した理由である)




小さな親切、大きなお世話しといて





ジャーナリストの父スヴェン・ホイビーと母マーリット・ヒェッセムの子として、クリスチャンサンで生まれた。兄2人と妹1人がいる。幼い頃に両親が離婚し、母に育てられた。

交換留学生としてオーストラリアの高校で学んだことがある。少女時代の生活は荒れたものであり、麻薬に手を染めたこともあった。1997年、当時交際していた男性との間に子を身ごもったが、男性は妊娠が判明すると彼女を捨てたため、シングルマザーとして長男のマリウスを出産。これを機に彼女は今までの生活を改めることを決意して麻薬を断ち切り、育児をしながら飲食店などで働くかたわら、猛勉強をしてノルウェー最高学府のオスロ大学へ入学した。

オスロ大学の学生だった1990年代後半、王太子ホーコンとロックフェスティバルで意気投合。マリウスを連れてホーコンと同棲を始めた。王太子が結婚もしないまま同棲するのはもちろん、彼女がシングルマザーであることも国民の驚きを持って迎えられた。また、2人の交際が深まるにつけ、マリウスの父親が麻薬常習者で服役していること、彼女自身も過去に麻薬パーティーに参加した経歴があることなどが次々と暴露されたため、連日マスコミは彼女らを非難した。2000年12月に正式に婚約が発表され、その際の会見でメッテ=マリットは涙ながらに自らの過去を国民に謝罪し過去との決別を約束。この会見で好感度を急上昇させ、国民の支持を獲得した。2001年8月25日、オスロ大聖堂で成婚。

結婚後は、公務や外国王族の冠婚葬祭に出席する機会が多くなり、海外訪問を積極的にこなしている。2002年から2003年、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院 (SOAS)で中東・アフリカ関連の講義を受講。ノルウェー開発協力局(NORAD)にインターンとして勤務したこともある。また、国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)の活動に関わっている。

ホーコン王太子との間に、イングリッド・アレクサンドラ(2004年 - )、スヴェレ・マグヌス(2005年 - )の2子がある。マリウスには王位継承権はない。

2011年7月に発生したノルウェー連続テロ事件での犠牲者の中には、メッテの義兄(母親の再婚相手の連れ子)が含まれている。

Wikipediaメッテ=マリット [ノルウェー王太子妃]より引用 )





次期王位後継者が平民出身と結婚は他にも例あるけど、オンナに限定した




対立関係にある異教徒だろうと、改悛したとはいえ黒歴史の持ち主だろうと、玉座を認めよう
…ここまで来ると、オランダもノルウェーも、デンマークも無論、本物の大人国民やな~と尊敬に値するわ




記事題名の意味:「無から有は生まれない」
男女も友情も、スッタモンダ起きる要素無い形で知り合えたら一番とは思うものの
スッタモンダ乗り越えるだけの人柄が知れるなら、そっちも良いと思わんかい?




> mathichenさん

病気になって 何にも解らなくなった時こそ
その人の 本当の性格とか根性とか出ると思っています




自分親介護を嫁に丸投げ、嫁親なんて知らんの甲斐性無しだらけの世情なのに
病気の旦那が、嫁父に関して

「(自分は一家の長なの。家族の一大事には)自分が行かなくてはいけない
アンタの親なら、お父さん行かなくちゃいけない。お父さん、家族だから<(* ̄^ ̄*)>」
人は見かけによらず
ホント、人間ぼへらぁ~状態なった時に、人柄現れますね~Σ>―(*・・*)→ キュン