拾う神と捨てる神は表裏一体の貧乏神~ステラ・ダラス~ - 映画、音楽、文学
『ステラ・ダラス』をFC2本館記事にしたので、もう1個の「母物」はHatenaに持ち込んだ
まず、枕部分
「Kiss Me」は、死の抱擁~人間の証明~ - 映画、音楽、文学
「母さん、ボクのあの帽子より、父さんどうしたでしょうね」
「ホントにお空へ飛んでっちゃったわよ」
少年期のジョニーを演じたのが山中ひかり、ジョー山中の実息子で、お父さんは2011年に亡くなったやんw
Yahoo!記事に
「原作者の森村誠一がどう自画自賛しようと、駄作と言わんが決して名作じゃないからね
編集もだが、大鉈振って交通整理していればね」
枝葉が多く冗長と感じるの
あと、八杉恭子の設定が「その職業で、意味あんの?」
私生活で国会議員の妻は、原作と同じ
職業が、原作では著書がベストセラーとなりマスコミの寵児になった家庭問題評論家、映画では有名ファッションデザイナー
恭子自身の息子と娘(映画には息子だけ登場し、娘は端折られたか?)の不品行を鑑みれば
家庭問題評論家が医者の不養生みたいな設定となり、皮肉で面白い
「ママに会って産んでくれた感謝と成長した自分を見て欲しい」
「ママは僕が邪魔だから、ママを助けてあげる」
恭子はジョニーを刺したけど致命傷に至らず、ジョニー自身がトドメを刺し、誰が本当に母親思いの子供だったかを見ても、ね
若作りした三田佳子に恭子役やらせたいのはアタシだけかと悩みながら本題へ
オカンが主人公を演じる映画は数多挙げられる
「三倍泣けます」「ハンカチをご用意下さい」、それは、子供たちがス~ハ~…の川口松太郎夫妻であるが
(意味わからんかったら、増田貴光 - Wikipedia
「一件消滅書」などで川口夫妻に接近を図った際、川口夫妻は最初「子供たちがまた…」と怯えたそう)
三益愛子はホント、生みの母・育ての母・心の母・何とかの母(確か、瞼の母)と感涙底引き網漁やっていた
ところで、三益愛子主演の母物って、瞼の母、母の瞳、母を求める子等と、子供視点の母物と言えるんじゃね
例えば
「次男が戦場から復員し、除隊後帰郷したら、実家に住むのは長男夫婦だけ
兄弟姉妹全員、父ちゃんに捨てられた母ちゃんの面倒見ていない
次男が母ちゃんの行方を探すと、母ちゃんは場末小料理屋洗い場で細々と生計を立てていた
次男は母ちゃんに駆け寄り、『母ちゃん一人くらい俺が食わせるから~』
風呂無しアパート四畳半一間ながらも、母ちゃんは酔客でなく次男のために皿洗いしながらとメデタシメデタシ」
母が受け身で、孝行息子側、事情あって母と生き別れていた子供側などから描いた話でしょ
サッカースタジアムに乗り込んだ母が一人でドイツ代表に11-1で勝利収める勢いの攻撃型母物を思い出したの
ベリッシマ(1951年)
https://movie.walkerplus.com/mv11257/
https://www.youtube.com/results?search_query=bellissima+1951
https://filmarks.com/movies/26211
フランス映画もよう喋る以上に、大阪人が無口に思えるくらい喋りまくりのイタリア映画の1本である
「他所で出された○○を一人で何個もガツガツ食って、ホンマ、育ち悪さが知れるわ~」
といった文句を身振り手振り付きで並べ立てるアンナ・マニャーニの凄まじさたるや
ステージママを猛省したら今度は、ローマ市民を糖尿病に追い込む計画企てるし (゚_゚i)
子供のためにと言いながら結局子供や夫に犠牲を強いるバリキャリ母親は我欲の塊に過ぎないを暗喩しているのは面白い
同じ稼ぐ母親でも、子供や夫の「個」を尊重してのローマ市民を糖尿病に追い込む計画でしょ
ベリッシマは、監督の奥深い知性と優しさを感じる作品である
この間、たっふいーさん記事へのコメントとして
サタジット・レイは貧乏な死別母子家庭育ちながら
父方の家系が少なくとも10世代前まで遡れ
そっちから知性と批判精神を受け継いだそう
公爵の倅にしてサロンコミュニストやってたヴィスコンティみたいに
本物上流階級と下層労働階級の両方を理解出来たんでしょね
ちなみに、インドには地球変える規模の巨大富豪いるってw
ヴィスコンティにド貧乏経験なんぞあるまい
14世紀に建てられた城で、幼少期から芸術に親しんで育ったんやで
山猫 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画
ぶっちゃけ、貧乏人育ちやったら絶対撮れん作品やがな
貴族社会の「表面」なら誰でも撮れるが、「内面」「空気」は生来肌身で知る者にしか無理
百歩譲って、上流DNAを受け継いだサタジット・レイのような監督に可能やろ
雑魚が逆立ちしたかて、マナー等を完璧に体得出来たかて、生来選ばれし者たちに届かん世界が存在するっちゅうことよ
若き日のヴィスコンティは、共産主義に身を投じたことでわかる通り、労働者大衆が社会を担うべきだと考えていたはずである
自身の出自に対する、アンチ・テーゼね
その後どこでどう変化したかわからないが、ヴィスコンティなりに庶民感覚を持っていたのは間違いない
生来の庶民と異なる点として、「物事を突き放して見る眼」、客観性が挙げられるかね
貴族が完全無欠じゃないように、庶民とて間違いは犯すもの
ヴィスコンティと同じく複眼思考の持ち主でなければ、主観というか感情に走ってしまいがち
どっちつかずの中立が公平をもたらし、ヴィスコンティをネオレアリズモの主翼を担う存在にした要因と考える
ベリッシマは、貧困問題などを真正面から取り上げるだけがネオリアリズモじゃないと見ていての、監督作品唯一のコメディか
上質な喜劇とは、実は重い内容でも笑わせる力持つ者だけが成功させられる
喜劇と悲劇は表裏一体、人生の機微を知る者と換言してもいい
フランスはモリエール生んだ国だから、極上の人間悲喜劇を描ける
非常に長い伝統を持ち多彩で、また地域によって個性的な文学作品が生まれているイタリアも然り
マンマミーアの国だから、ヴィスコンティがベリッシマ撮ったかまではわからんけどw
最後に
晩年に『ふたりの女』の出演依頼がきたとき、
50才を遠に過ぎた年齢であったにも関らず母親役をよしとせず蹴ったところ、
代役は26才年下のソフィア・ローレンになり、
ローレンはその演技でアカデミー主演女優賞を獲得。
「私の役はみんなソフィアが持っていってしまう。」と後輩の活躍をうらやんだという。
マニャーニのWikipediaからね
自分自身、1955年の英語映画『バラの刺青』で
アカデミー主演女優賞 受賞
英国アカデミー賞 主演女優賞 受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) 受賞
何に文句あるんでしょw
それと、『ふたりの女』、あれの母親役には「若過ぎない若さ」が必須よ
「貧乏するよりはマシと愛してもいない老人と結婚し、目先の損得ばかりに捉われて打算を重ねた結果
自分だけでなく最愛の娘までも悲惨な出来事に巻き込まれてしまう、無知で短絡的で思慮の浅い女性」
50何歳BBAに似合う役じゃないよね