池田理代子先生『ベルサイユのばら』は、史実を基にしたフィクション作品である
あくまで「創作」だけに、10歳の餓鬼ではわからず、54歳現在「女はやっぱ、ダメね」と感じ入る謎が一つ
コミック第2巻、娘マリー・アントワネットの肖像画を、母マリア・テレジアが拒否る場面ね
フランス王妃の肖像画でなく派手に着飾った女優の肖像画と嫌悪感を示している
自分は一人っ子しかも女子のため、オーストリア継承戦争が勃発したを鑑み
多忙な政務をこなしながら、夫フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした
会議の最中、次は男か女かで大臣どもと賭けたくらい、家庭的なシェーンブルン宮殿であった
が、子供たち以前に、母親自身が俗世間の生活に接していない意味で世間知らずと言えよう
世界の物事全てが宮殿内で完結している生まれ育ちだ
18世紀の欧州王室だと、日本の学習院みたいな教育機関は無く、宮殿に招かれる家庭教師陣の下で学ぶ
王侯貴族の学友すら存在せず、子供は周囲にい兄弟姉妹だけ、一人っ子なら子供は自分だけとなる
帝王学の有無関係無く、机上の勉強のみで世界を知り動かす大人となろう
そもそも宮殿の外に出る機会って、教会行く程度で、ほとんど無い
嫁に出される女子だったら、実家から婚家への道程が、人生最初で最後の旅行に等しい
アントワネットちゃんの例で見てみ
フランスに到着すると、宮殿自体が一つの町みたいなヴェルサイユ及び遊びに出かけるパリが、全世界となる
革命勃発後、パリのテュイルリー宮殿に移され、ヴァレンヌ逃亡事件が起きるけど
14歳~38歳まで四半世紀の間、フランスから一歩も出ず、限られた範囲に留まっているよ
要るに、非常に狭い世界での人生が何代も繰り返されるならば、政治戦術等に長けていても一人の人間としては?
マリア・テレジアの場合、女様特有のズルイ!が見られると来る
子供達を次々と政略結婚させながら、最もお気に入り四女には母親と同じく恋愛結婚を許し
身体障害を持ち病弱であった次女や反抗的な六女に対しては生涯を通じて酷薄であった
六女は、姉に認められた恋愛結婚が認められず、ウィーン宮廷では家族全員に邪魔者扱いを受け、母には「厄介者」と呼ばれ
その反動で嫁ぎ先パルマ公国に於いてご乱交に励んだ結果、母から勘当され、帰国を禁じられたから
オカン、娘の不出来は確かだが、元凶はアンタやで
自分の結婚生活が幸福を世界基準に据え、廷臣カウニッツの他、国民どんだけ迷惑したやら
デュ・バリー夫人の真偽の審議は置き、娼婦を鞭でシバキ回して感化院送りとか
自堕落女はそれ一択やけど、正規な就業の道少ないか無いので身体張る女には情状酌量の余地あるやろ
国が戦争し、王侯貴族はエエ暮らしをしとってみ、マジ塵フェミと変わらんで
「父親譲りの遊び好きな十一女はドレス1着にどれだけ税金の無駄遣いか知ってるのだろうか?」
と女帝が懸念するなら
「税金の意味と納税の仕組みを、いずれは王妃や公妃となる皇女達に早くから徹底的に教育したのだろうか?」
王侯貴族の娘なんて持ち駒だ、嫁ぎ先が何処であろうと、フランスならフランスの何から何まで仕込み
歌い踊るのは宿題終わってからじゃと厳命してからじゃ
フランスへ嫁ぎ、王太子妃から王妃に昇格してみたら
中身は平凡だが赤字夫人、三部会では「納税が国民の義務だから~ゴチャゴチャ言わず納めろぉ」
話にならん…
理想や夢が一から十まで実現する者など、古今東西、ほんの一握りに限られる
皇族でも国会議員でも貧乏人でも特権や生活保護を受ける身分なら
税金だけで生活しない面々、職業と私産を持つ王侯貴族と違って
特権が自由であり、税金で生活出来る権利には、権利に見合うかの審査受ける義務付けだ
落ちないだけの実績と自信を持つなら篩に掛けられるを拒否ったりしないしね
とにかくアレも欲しいコレも欲しい何もかも欲しいというのは人間ド厚かましいに尽きる
頭丸めた坊さんの檀家総代である家庭に、嫁だけカトリック信徒はまず無理で
恋愛など諦めてカトリック家庭に嫁ぐ、生涯独身を誓って修道院で余生を送るのどちらかでないと
隠れキリシタン・形式的に仏教改宗し、婚家の了解を得た上で理想や夢に近いモノを得るの二択でしょ
「ママンは私を構ってくれなかった。私にはいま、家族がいる」
姉弟の再会場面には、お姉ちゃんが100%、面倒嫌よ宇宙人でないことが絶対条件だよ
弟施設に何年も面会に訪れなかった理由が、自分の家庭優先で余裕が無いならわかる
余裕ある時、あるいは、必要が生じた時に行くならいい
ママンがもう逝ってるなら、弟にはお姉ちゃんしかいないわけじゃん
お姉ちゃんを絶対必要とする場面まで、お姉ちゃんが逃げたら絶対許しま宣言
だって、このお姉ちゃん、自分自身で弟を施設に入れてないよね
ママンは娘を放置したけど、息子が困らないよう手配は自分で済ませた
お姉ちゃんは放置されたけど、就業や結婚で自分の人生という「自由」を得ている
弟を引き取れなくたって、家族に囲まれない生活送る弟が心頼りに思う「家族」でいてあげるくらい出来るでしょが
ギルバート・グレイプと比較してみな
長男は独立済みで父親は亡くなり母親は肥満の過食症で7年間もヒッキーしているグレイプ家
そのため、一家の大黒柱は実質上、次男ギルバート
普段は小さな食料品店で働き、家族からは頼りにされており
特に重い知障であるアーニーとは多くの時間を共に過ごし、面倒を見ている
家族の世話に追われる日々に自分の将来の夢を考える余裕も無く、精神的肉体的に家や小さな町に縛られる生活を送る
それが最後には、手の掛かるアーニー連れながらもようやく外の世界へ出られる見込みが生まれる
この映画で一つ気になる点:「独立済みの長男、面倒嫌よ宇宙人(・・?」
ギルバートに全て圧し掛かってるのが、辛くなる
アーニー以外の家族は、母親と姉妹
自立可能な軽度知障でも「自立」は健常者のそれと違い、見守りや支援が要るくらいだから
𝗪𝗵𝗮𝘁'𝘀 𝗘𝗮𝘁𝗶𝗻𝗴 𝗚𝗶𝗹𝗯𝗲𝗿𝘁 𝗚𝗿𝗮𝗽𝗲 - 𝘎𝘪𝘭𝘣𝘦𝘳𝘵 𝘩𝘪𝘵𝘴 𝘈𝘳𝘯𝘪𝘦 - (sub. esp.)
What's Eating Gilbert Grape? (1993): Gilbert Leaves Arnie In The Bath
What's Eating Gilbert Grape? (1993): Gilbert Wakes Up Next Morning To Find Arnie Still In The Bath
女子だけの家に、多動系男子置いてトンズラ出来んしな
兄弟で町を出るとして、アーニーが入れる施設あるとして
アーニーが生きてる限り、ギルバートは決して本当の自由を得られない
新風吹き込んだベッキーのような女性に再び出会える可能性も、無いと断言しないが
「夢は必ず叶う」「挫折しても、新しい夢が生まれる」とド低能バリキャリみたいに期待してると自分が惨めなだけよ
一生独身、結婚出来るのいずれにせよ、何らかの折り合い付ける場面持つのが「きょうだい児」の人生だ
自分自身は健常者とあって、差別や偏見が理不尽で胸糞でも
ジョルジュのお姉ちゃんのような「自由」を得ているならば、高望みは自分が辛くなるだけ
…俗世間の自由ガー権利ガーなんぞ、選択肢を無駄遣いしてる飽食小皇帝の寝言の証明終わりw
当記事思いついたネタ元は
https://news.yahoo.co.jp/articles/7a661323d13f8af8cdfcda502eca5ac849d8b6c3/comments
記事題名は何となく