mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

千日千一夜過ぎようとも

 【投稿ネタ】火の用心。アナタが徹底している○○は?


『火の用心の歌の歌詞で!!。』(Ahoo!知恵袋)
「お金は世のため 人のため ←これは解りません
ちょきちょき 貯金の 金曜日」
一日一膳の飯で済ませるならいざ知らず、カネの用心してたであろう超大物爺さんにピッタリかもねじゃなくて




昔々大昔
「年の瀬になると、夜、火の用心~が巡回するけど
火事は何も空気乾燥する冬場と決まってへんよって、一年365日(閏年なら366日)やったらエエんちゃうん」
ワーグナー師匠格と意見一致した
間違ってないわな?




んで、FC2別館から2011-10-25記事持って来た
そのまんまよ

【大阪の20世紀】
(34)死者118人「人間が降ってくる」 千日デパートビル火災

2011.10.23 11:30 (1/6ページ)[westピックアップ]

産経新聞アーカイブ(1999年04月18日 大阪府下版に掲載)

いやな予感…記者の目前、次々と「バキッ」「ドシャ」

 「南区(現・中央区)難波新地三丁目、千日デパートビルで火災発生」

 一九七二年(昭和四十七年)五月十三日午後十時四十分。大阪市消防局南消防署の拡声マイクが鳴った。当直勤務についていた救助隊長の扇谷敏は、消防車に飛び乗った。

 デパートビル周辺は、消防車のサイレンと半鐘の音が鳴り止まず、週末のミナミの夜を楽しんでいた人らで、ごった返していた。

 ビルの一階から三階までと最上階の七階には、照明がついているものの、周辺には、焦げたような臭気が漂っていた。ビル正面の「千日」を示す「S」の文字が黒く浮かび上がり、側面には「5月14日は母の日です」と書かれた垂れ幕が揺れていた。

 扇谷は、出火地点の確認のため、防火服も着ずに、建物内に飛び込んだ。閉店後のデパートは静まり返っていた。階段を駆け上がり、三階にたどり着いたが、一、二階の平穏さに比べ、まっ黒な煙がとどまり、熱気が渦巻いていた。

 「火が逃げ場を失っているようだ」。扇谷は、これ以上の突入は無理と判断し、階段を降りようとした。その時、照明がいっせいに消えた。いやな予感が駆け巡った。

〈五月十三日午後十時三十分ごろ、千日デパートビル三階のスーパー「ニチイ」から出火。地上七階、地下一階建てのうち、二階から四階までなど延べ約八千七百平方メートルを焼き、ビル火災で史上最悪の百十八人もの死者を出した。最も被害が大きかったのは、焼けなかった七階だった。階下で発生した濃煙が、空調ダクトやエレベーターの昇降路を通じて侵入。営業していたキャバレー(当時は「アルサロ」と呼ばれていた)の「プレイタウン」に充満した〉

アーケードを突き破り

 「人がバラバラ降ってきます」

 扇谷が現場に到着して十数分後、サンケイ新聞(現・産経新聞)社会部ミナミ方面担当記者の吉田正樹=現・サンケイスポーツ編集局長=は、ラジオカーの無線マイクに向かって叫んでいた。

 吉田は近くの大国町でのデモ取材を終えた直後、「ちょっとのぞいて(様子をみて)くれ」という会社からの連絡を受け、現場に駆けつけていた。

 見上げるビルの七階からは、黒煙があがっていた。さらに驚くべきことに、東隣の千日前商店街のアーケードに向かって、次々と人が落ちてきた。

 「バキッ」「ドシャ」

 アーケードを突き破って、道路にたたきつけられる鈍い音が聞こえた。

 スパンコールのついたドレスの女性が宙を泳ぐように舞うのが見えた。消防車のハシゴの先端に向かってダイビングを試みて失敗し、転落する人や、電線にバウンドして、路上に転がる人もいた。

 吉田の隣で望遠レンズを構えていたカメラマンの手が震えている。七階に目を凝らすと、窓から複数の白い手が助けを求めてうごめいていた。

 吉田も体が勝手に震えてくるのを感じながら、頭の隅では、明日の日曜日、子供と遊びに行く約束をしていたことを思い出していた。

熱気増す室内

 闇に包まれたビルから脱出した扇谷が見たのは、七階の窓にハシゴを立てかけて救助活動を行うハシゴ車だった。

 視線の先には、たたき割られた窓から身を乗り出す人や、必死に手を振る人がいた。熱気のためか、ほとんどの人が下着姿だったのが異様に思えた。

 扇谷は、ハシゴの先端に駆け上がった。目の前には、ぐったりしている人がいた。腰を持って助け上げようとしたが、ハシゴが不安定で持ち上がらない。窓からビル内に突入しようとしたが、酸素ボンベが邪魔で入れなかった。

 「こうなったら、ビルの中に戻って内部から突破するしかない」。扇谷はハシゴを駆け降り、消防ホースを持って再び突入した。

 三階の階段付近の熱気は、前にも増してひどくなっていた。視界も利かない。そのうえ、外から侵入する消火水が熱湯に変って、階段を滝のように落ちてくる。立っていられず、踊り場にあった植木を倒し、その上に乗って放水を続けたが、火勢は一向におさまらない。火との闘いは夜が白み始めるまで続いた。

 〈この時点では、百十八人もの犠牲者がでているとはだれも思わなかった。十四日付のサンケイ新聞朝刊は、死者二十六人、重軽傷者五十八人と伝えた。ほとんどが飛び降りて死亡したり、けがをした人たちだった。しかし、プレイタウンには、まだ九十六人もの人が残されていた〉

重なる遺体の山

 明け方になって、ようやく火勢はおさまり、午前五時半ごろ、救助隊が七階のフロアに入った。そして惨状を目の当たりにする。

 十五日付のサンケイ新聞朝刊は次のように記す。

 《ここには火が走った形跡はない。ボックス席のテーブルの上にはビールびんが一本、主を待つように静かに立っていた。あたりに漂う熱気と異臭さえなければ今すぐにでも開店できそうだ。

 だが、それはとんでもない錯覚だった。機動隊員の懐中電灯がフロアの隅をなめる。にぶい光りの矢が一瞬止まった。死体だ。死体の山だ。十人。いやもっといる。(中略)みんな床にうつぶせになっている。(中略)『こっちにもあるぞ』。再び電灯の光りがあわただしく揺れ、別の死体の山を照らし出す。ひとつ、ふたつ、みっつ…識別の番号をつける若い機動隊員の手が震えていた》

消防法改正きっかけ

 千日デパートビルは、火災後、十二年間放置されていた。昭和五十九年にショッピングビル「プランタンデパート」に生まれ変わるまで、大阪でも有名な“幽霊ビル”だった。

 出火原因については、ビル内で電気工事をしていた作業員が、火の消えていない煙草を投げ捨てたとして、重過失失火容疑で逮捕されたが、不起訴となった。ビル所有会社の管理課長ら四人(うち一人は公判中に死亡)が業務上過失致死傷罪で起訴され、最高裁で三人の有罪が確定したのは十八年後だった。

 一方、教訓を生かそうと、消防法の改正という画期的な動きもあった。雑居ビルなどの不特定多数が出入りする特定防火対象物には、スプリンクラーや自動火災報知設備の設置が義務付けられた。

 改正前の建物にもさかのぼって適用されたため、大阪市内だけで一千近い建物が適用対象とされ、一時、設備設置をめぐって混乱も起きた。



 火災から四半世紀以上がたった。プレイタウンに勤めていた娘=当時(三〇)=を亡くした女性(七二)=大阪市西成区在住=は、小学生だった二人の孫を育てた。二人とも結婚し、ひ孫も生まれたが、「私たちの人生の中では大変なことだったけど、だれに言ってもわかることではない。もう思い出したくない」。

 現在、五十八歳の扇谷は、南警備方面隊長を務める。自ら火災現場に出動する毎日が続いているが、「悔しく無念」と、一度もビルには近寄っていない。

 一方、若者らでにぎわうプランタンデパート北側の地下駐車場の入り口には、小さなお地蔵さんのほこらが、ひっそりとたたずんでいる。

 「光明地蔵」と名づけられたほこらは、元テナントだった男性が私財を投じて犠牲者の冥福を祈るために建てた。今も、ほぼ毎日、デパートに出入りするテナント関係者らによって、ろうそくがあげ続けられている。

 =敬称略、肩書は当時

( 出典先:MSN産経ニュース




火災現場周辺では現在も怪談多し
幽霊がタクシー止めるとかいう話だっけか
目撃談体験談を時々耳にします




私がピカピカの小学校1年生になったばかりの頃で
ニュース映像見ただけ、詳細は知らかったのですが
1985年頃、バイト先(心斎橋)で聞いた話によれば




「私(上段バイト先のおばちゃん)の知り合いがな
千日デパート食べ物屋の洗い場パートに雇われ
『今日から仕事やねん』と張り切って出勤したまま…」




新しい職場をようやく見つけ、さあ心機一転の矢先
さぞかし無念でしょうね…
1985年の話は、心斎橋PARCO社員食堂の暇な時間に聞いた
社食のオバちゃん、いま思えば若い、40歳過ぎくらい
19歳で駆け落ち失敗し、親の決めた相手に、仏頂面の金襴緞子で嫁入りした
旦那の身体弱いが介護まで要らず、子無しだったので、若い頃からパート勤務していた
千日デパートに転職したオバちゃんも同じ年恰好かしらと思うと…




千日前いうたら、元々、処刑場あった場所で、縁起いくないし
幽霊わんさか彷徨っていて不思議やないけど





ママさんホステスが多かったらしいから幼くして母親を亡くした子供が気の毒でならない。

しかも母の日の前日でしたから余計悲しくなります。。。

中には子供と行く予定であっただろう子供映画のチケットを握ったまま死んでいた人もいたそうです。

それどころかホステスやってたということで母子家庭が多く、孤児になってしまった子もいたという話・・・
これを知ると、某カメラ の中に入れない。

白木屋火災、大洋デパート大火災とならぶ大惨事

 




ビックカメラ以前のプランタンなんば当時から、空気冷たい異次元?な場所あったで
ビックカメラは真剣に、怖い
英語の催し物案内状を手に持つハリポタのルビウス・ハグリッド似白人お兄さんを道案内した時
建物手前から看板を指さし「Here!」、脱兎の如く逃げたくらいや




じゃなくて




白木屋火災は
都市伝説ながら、昭和初期の女性文化を思うと実話であったって考え得るのが哀しい




実話であるだけに哀しいのが、千日デパートのママさんたちよ
死別と離別どっちにせよ母子家庭が高収入を得ようと思えば、ラクじゃない
食べ物屋の洗い場パートに雇われたオバちゃんも、エエ条件に喜んでたという事で、やっぱ?




「高収入夫婦が起業し、息子を赤ん坊のうちから夫婦どっちかのババに任せた
数年後、男児の元気良さに追いつかなくなったババが、孫を幼稚園の友だちの家に送り出すようになり
頻度高過ぎて、やがて何処でも嫌がられた結果
放置子が、両親の会社に出かけ忙しいからと追い出された日に、人気無い雑居ビルで転落死」
みたいな実話に、本気で殺意覚えるくらいだ




人間は自分自身が痛い目を見ないと、世の中舐め腐る生き物であり
似非民主主義に基づかれる平等ガーにより、面倒嫌よ相続はシッカリ宇宙人だらけの末世とはいえ
親でも子供でも、無くしてから反省したって、遅いのよね




これと千日デパート火災が、建築基準法、消防法の改正に繋がるものの
「千日と大洋の火災が21世紀現在にも、ド〇キなら起き得るぞ」
どっかのコメント欄にあるように、千日千一夜過ぎようとも、喉元過ぎればが…