mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

いまは崎陽軒のシュウマイより、ジンギスカン鍋食べたい

横浜中華街のコトを考えてたら、悲惨もとい日産スタジアムまで最後に行ったの何時か悩んだ

中2日で、弾けよう♪飛田給☆、東京都調布市にも飛んだ8年前かしらん




最初に行ったのは

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>>たぬきなかんじでどろ~んのおうじ
丸焼きでもしし鍋でも、おなかイタクなるくらい食いやがれ

およそ14年前だ
横浜マリ~おうじはどうやら腹壊して逝ってたり~と勝手に殺しといて




来月5日が誕生日で、生きてりゃ数えで40歳を迎える、チャールズに負けず劣らず爺ィおうじ
この世にオギャ~した1979年のヒット曲、奴は当然知らんと思うが
その年13歳だったマテ姉さんは、この間何十年ぶりかに思い出してしもた
しし鍋と同じく食ったコトねー鍋と同じ名前の歌だよ


モンゴルの英雄であるチンギス・ハーンジンギス・カン:成吉思汗)をモチーフにしたこの曲は1979年3月に「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」で発表されて話題を呼び、ジュピターレコードからシングル(B面は「砂漠の国サハラ Sahara」)として発売されて西ドイツ国内では4週にわたりチャート1位、50万枚の大ヒットになった。さらにヨーロッパにのみならず世界的な大ヒットとなり、日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1979年8月6日付から5週連続1位を獲得した。オリジナルのドイツ語だけでなく「ジンギスカン」自身による英語版や、中国語、日本語(3種類の歌詞)、)、ロシア語、韓国語でのカバーも出された。そして同年7月にリリースされたファーストアルバム「ジンギスカン」にも収録された。

Wikipedia:ジンギスカン[曲]より引用 )

ドイツ語版持って来た
他言語版及び日本語字幕付きは自分で探せ
https://www.youtube.com/results?search_query=dschinghis+khan+dschinghis+khan




40年後現在、「西ドイツっちゅう国は、頭湧いてたのかね」
ワケワカメな異国趣味持ってたとしか思えん例として、もお一つ↓


アラベスク (Arabesque) は、1977年にデビューし、1984年頃まで活動した西ドイツ(当時)の音楽プロジェクトである。

竹の子族などの支持もあり、80年代前期の日本における洋楽の人気の牽引車となり、日本発の人気は韓国・中国語圏などアジアにまで広がった。また、当時のソ連中南米でも成功を収めたが、一方、本国西ドイツでは「哀愁のマリゴット」(チャート8位)しかヒットしなかった。

Wikipediaアラベスク[歌手]より引用 )

arabesqueは、モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式じゃん




日本と隣近所の趣味が合うといえば
https://blogs.yahoo.co.jp/borussiamagdala/34956541.html
欧州に位置するが、歴史上のČinggis Qan(成吉思汗)一族が攻め込んだアジア系の国ヒット曲も追記して




西ドイツのDschinghis Khanに、横浜と何の関係がって?

2004年12月16日にはサッカー国際親善試合「日本対ドイツ」戦で「ジンギスカン」を基にした応援歌が披露される。これは2006年のFIFAワールドカップの会場がドイツということもあり、アメリカ大会(1994年)へ向けて行われたアジア地区予選(1993年)で歌われたアメリカ民謡「リパブリック讃歌」の替え歌「アメリカへ行こう」、1998年のフランス大会本戦で披露されたフレンチポップ歌手ミッシェル・ポルナレフの大ヒット曲「シェリーに口づけ」の替え歌「アレー ジャポン」に続くケースとなった。

そおだったっけ??
日産南側、日本産ドイツ大応援団の下、低い位置に青いフナ侍大応援団が雁首並べてたけど、サテ???




VHSの機械、20年選手を張り倒して確認せなアカンとして




耳にしてたのに記憶無いのは絶対、↓のせい


緊張のあまりガチガチに固まり、♪君が代のお約束とはいえ「さざれ石」に思いっ切り躓いた
「いっそ、君が代も、ドイツ国歌斉唱者に歌って貰ったら救われたのに」
J.C.F. Bach - Miserere mei deus VI. Tenor Aria
Uwe Heilmann, tenor
嫁がね、日本人ソプラノなの
嫁の地元、鹿児島かしら、そこで畑仕事にも精を出してるらしい
ハイルマンに歌わせるか、嫁も連れて来て歌わせるか、そっちがマシだと、試合中呆れてたワケ