mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

人生の終着駅行き終電の切符すら~ウンベルト・D~

ウンベルト・D Umberto D. (1952年)

シナリオは「靴みがき」以来「終着駅」まで絶えず、デ・シーカに協力しているチェザーレ・ザヴァッティーニがデ・シーカの父親をモデルとして書いたものと言われている。監督は「ふたりの女(1960)」のヴィットリオ・デ・シーカ。撮影は「終着駅」のG・R・アルド、音楽は、これまでデ・シーカの全作品を受持ったアレッサンドロ・チコニーニ。出演者は、大部分が素人で、主演のウンベルトにフィレンツェ大学教授のカロル・バッティスティが請われて出演、マリアには同じく町で発見したマリア・ピア・カジリオが出演している。

ウンベルト(カロル・バッティスティ)は約半世紀のあいだまじめで地味な官吏生活を送ったあげく、クビになった七十歳の老人である。今はわずかな恩給を頼りに愛犬フランクとのアパート暮しだが、部屋代がたまって追いたてをくっている有様。彼は幾度も恩給引上げ要求のデモ隊に加わって陳情したが、それもうまくいかない。アパートにはマリア(マリア・ピア・カジリオ)というやさしい娘が、意地の悪い女管理人(リナ・ジェンナーリ)の小言をくいながらまめまめしく働いていた。ある日、マリアは老人に打ちあけ話をした。……十七歳の時、田舎を飛び出してこのローマにやって来たのだが、今では妊娠している。アパートの前の兵舎にいる二人の兵隊がマリアに熱をあげ、関係した。二人はマリアをめぐって喧嘩までしたが、さて将来の子供の事となるとソッポを向いてしまうのだ。つらい浮世を嘆く孤独な老人と娘は折にふれてなぐさめあった。そのころ、老人はノドを痛めて慈善病院に入院した。もどってみると部屋は改装されて、愛犬は追い出されていた。犬は探し出したが金策のあてはない。昔の同僚や上役にも逢ってみたが、とおりいっぺんの事しか言わない。老人は道に立って乞食をしようとした。だが彼の自尊心はそれを許さなかった。ウンベルト老人は、ついに自殺をおもいたった。できることなら、あの管理人の面前に窓から身を投げてやりたい。しかし空腹そうな犬の顔をみると、そうも出来ない。あとに残ったこの犬は、一体どうなるのだろう。考えあぐんだ一夜が明けた。老人はさびしく部屋を出た。……どこへいらっしゃるの?と声をかけるマリアにも答えずに、老人は電車から、マリアはアパートの窓から、親子のように挨拶を交した。朝の街を、老人と犬は歩きまわった。愛犬のために、安らかな住いを見つけてやらなければならない。けれどもどこにもこの犬をかわいがって置いてくれそうなところはない。彼は愛犬といっしょに死のうと決心した。汽車みちまでやって来た老人は、自分の体にしっかりと犬を抱きかかえた。やがて列車が近づいて来た。一瞬、犬は大声に鳴き叫んだ。……轟然と列車が通過した。ウンベルトは、心配そうにこちらを見つめている犬を、みじろぎもせずに見やった。もう、彼はこの犬以外の事をみな忘れた。老人はもう残り少い人生をこの犬と生きて行こうと決心した。それはつらいことだが、一匹の犬が老人と死から生へ引きもどしたのだった。老人は愛犬の名を呼び、路ばたの松ボックリを拾って、遠くへ投げると再び犬とつれだって歩きはじめた。

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「ワン公:せまい小屋ですが、ボクがお世話いたします。」

犬がドロボー猫ほど優秀なら、お願いね





マーティン・スコセッシ監督が
1999年のドキュメンタリー‘マーティン・スコセッシ 私のイタリア映画旅行’で、同作を扱い
ネオリアリズムの極限
為す術も無く立ち尽くすとはどういう事かを描いている
人間の経験のとてもベーシックなレベルを
デ・シーカからの大切な贈り物だ
彼の父親と、我々への」
(デ・シーカは、この作品を自分の父親に捧げた
余談ながら、イングマール・ベルイマン監督のお気に入りの映画だった)




この映画、現代日本人こそ観るべきだ
いくら60数年前の70歳とは隔世の感大きいとはいえ
ボケるにボケられず、老体に鞭打ってカネ稼ぐしかないにせよ
50歳過ぎて、若い時ほど何かと動きが取れなくなり出すと、定年より諦念が先に来るわよ
ホント嫌~ね、敗戦から10年経ってないイタリアと大差無い、見掛け倒し先進国なんて