mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

Was Geist und Echt !(純粋なる精神と真実)

前記事のキッカケ:「ヴィルヘルム・ピッツ(Wilhelm Pitz)」

https://de.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Pitz

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side 2は無いのか!?
ま、CD持ってるから困らないけど
さよう、戦後のバイロイト音楽に於いて強力な合唱団を作り上げた名合唱指揮者ね
その経歴をちょっと調べると、過去の名指揮者の名前が続々と出て来る所が凄い
主要な録音の合唱作品には、ピッツの名前が必ず登場する
ドイツ系の合唱の神様と言ってもいい




ここでバイロイト音楽祭の歴史を振り返ると




音楽祭の最高責任者である総監督は、代々リヒャルト・ワーグナーの子孫及び係累によってのみ受け継がれる
という事は、同族経営に起きやすい身内同士のスッタモンダ、厄介者が、ワーグナー家にも付き物なのよね
「君の家は『トリスタン』と『指環』の伝統を守っているね。何故って?
酒や料理が出されるといつも決まって裏切りや卑劣な行為が必然のように続くからね」
作曲家の孫息子ヴィーラントが、ソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップの旦那から言われたとさ
このヴィーラントの娘ニケもトラブルメーカーだが
過去で一番厄介だったのは、ヴィーラント&ヴォルフンガング兄弟の母親ヴィニフレートに決まってるわ
 
本名はウィニフレッド・マージョリー・ウィリアムズといい、イングランド出身だが、2歳にならずして両親を相次いで失い、親類の間でたらい回しにされた末、母方の遠縁にあたるドイツ人ピアニストのカール・クリントヴォルトに引き取られた。クリントヴォルトはリヒャルト・ワーグナーの親友で、このためヴィニフレートは筋金入りのワグネリアンとして育てられた。

バイロイト音楽祭ワーグナー家の家業として構想されたため、指導権はリヒャルト・ワーグナーから未亡人コジマを経て、息子ジークフリートワーグナーに受け継がれなければならなかった。だが、ジークフリート両性愛ないしは同性愛的傾向があり、結婚に興味を示さず、男ばかりの取り巻きを好んでいた。1914年のバイロイト音楽祭で、17歳の「ヴィニフレート・クリントヴォルト嬢」が呼び付けられ、45歳のジークフリートに引き合わせるべく手はずが整えられる。翌1915年9月22日に2人は結婚した。結婚によって、ジークフリートの同性愛と、それにかかわる手痛いスキャンダルに終止符が打たれることが期待されたためである。2人は矢継ぎ早に4人の子供をもうけている。

その後は第一次世界大戦敗戦の財政難の中、夫の新演出実現のために資金集めに奔走したり、逆にトスカニーニの音楽祭出演を説得するなど、良妻ぶりを発揮、音楽祭に欠かせぬ存在となる。
 
彼女の転機は1930年に訪れた。コジマが亡くなった後、ジークフリートが急逝し、彼女は一人で音楽祭運営を行わなければならなくなった。

ヴィニフレートが、ナチズムの思想に早い段階から共感と信奉を表明していたことも事実である。1923年に初めて出会って以来、ヒトラーミュンヘン一揆に失敗して投獄された際には、食べ物や原稿用紙を差し入れ、結果的に『我が闘争』の執筆の手助けをするという献身ぶりだった。彼らはドイツ人のナショナリズムや、北方人種の自己実現、「民族的(völkisch)」な願望を、義父ヴァーグナーの美的理念として解釈し、共有した。こういった事情により、バイロイト音楽祭は、ヒトラーの好み通り、ドイツのオペラ興行の最高峰にして、ナチス・ドイツの国家的行事の頂点を飾るという事態に至った。

第三帝国崩壊後はナチズムへの加担責任を問われ、実刑は免れたものの事実上の公職追放を迫られた。バイロイト音楽祭の経営はヴィーラントならびにヴォルフガングの兄弟に担われることになる。

1975年に、ヴィニフレートはハンス=ユルゲン・ジューバーベルクのドキュメンタリー・フィルムでインタビューに応じたが、自らの過去についてまったく悪びれた様子を見せなかった。「彼と出逢ったことは……避けようのない体験だったのでしょう」と言い、ヒトラーへの変わらぬ敬意も告白した。彼女とヒトラーの親密さが、性的なものだったか否かはしばしば勘ぐりがなされるが、そうと決め付けるだけの確証は今のところはない。

Wikipediaヴィニフレート・ワーグナーより引用 )
 
総統閣下を取り込み、音楽祭への援助を引き出した手腕は認められよう
そうでなけりゃ、戦時下を乗り越える事は困難だった

ヴィーラントの妹でヴォルフンガングの姉に当たるフリーデリント、彼女は、反ナチスであった
ママンが隠居後も、お仲間と総統閣下の思い出話に花が咲くみたいな光景にゾッとしたというほどの基地ぶりで音楽祭に残してくれた負の遺産大きかった模様
1945年に連合軍機の空襲を受け、劇場は無事だったものの、1951年まで開催されない状況にも陥った
ヴィニフレートを追放し、ヴィーラント&ヴォルフガング兄弟が音楽祭を支える事となり
バイロイト民主化が一応なされた
1951年7月29日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮のベートーヴェン第九で音楽祭は再開された
再開後初出演したのはハンス・クナッパーツブッシュヘルベルト・フォン・カラヤンであった
再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であり、苦肉の策を講じる
最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて、暗示的に舞台背景を表現するという、新機軸の舞台を考案した
この資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベーム新即物主義的な演奏とともに
戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻する事になる『新バイロイト様式』の始まりであった
事情が事情であったが、クナッパーツブッシュカラヤンはこの演出に大いに不満であり
カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去った




カラヤンといえば、1951年に

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EMI盤は正直、大体録音良くないレーベルだし、音質悪い
テープ音源なので、経年劣化してノビちゃってる
CDで聴いてみたい方々
1951年にバイロイト音楽祭が第2次世界大戦後はじめて再開されたとき、EMIが収録したライヴ録音です。ちょうどSPからLPに移行する時期だったので両方の方式で発売されましたが、このCDは名復刻者オバート=ソーンがオリジナルのLPから復刻したものです。若きカラヤン(1908-89)の颯爽とした進行、戦後最高のザックス歌いのひとりエーデルマン(1917-2003)を中心とする歌手陣もそろっています。終幕の有名なザックスのドイツ文化賛歌のヤマ場、「ヴァス・ドーイチュ!」の一言で思わず声を震わせるエーデルマンが感動的です。(山崎浩太郎)

http://ml.naxos.jp/album/8.110872-75
ナクソス盤を探すべし




オットー・エーデルマンは多分、緊張しちゃって、声震えたんじゃないのぉ
この場面で見事、その前にも赤っ恥かいてるのに、声裏返った某歌手よかマシか
音楽祭再開記念公演で、内容が内容で、怖くない歌手いたら不思議だわ




アタシが震えたのは、騎士ヴァルターが懸賞の歌を歌う場面だった
団子をノドに詰めたみたいな声のハンス・ホップにじゃなくて、ニュルンベルク市民、合唱団に感動した
ヴァルターが第一番を歌い終わると、皆一様に衝撃を受ける
ヴァルターの歌を盗んだ(正確には、靴屋のモノと思って盗み、靴屋から貰った)、市の書記ベックメッサー
颯爽と歌合戦に臨んだら、悪い事は出来ないね、歌の難しさに音を上げ大失敗
とは対照的な素晴らしい歌唱ぶりに、市民の皆様が感極まって震えるような静かな声で称賛するの
第二番の後そして第三番の最中へと、アンタが大将☆とばかりに高揚するのが効果的である




ピッツの演技指導の賜物と思う
後に日本人初の合唱団員としてピッツに選ばれた花田夏枝女史によれば
「後任のノルベルト・バラッチュさんは技術的(悪い意味じゃない)に対して、ピッツさんは精神的」
精神的というのは、演劇面をも重要視する意味が含まれよう
合唱指揮者、オペラ指揮者、どっちも楽譜通り振ってりゃOKみたいなのが多い中、偉大な存在と断言するわ




Was wollt Ihr von den Meistern mehr ? (この上、名匠たちに何を望むというのでしょう?)
記事題名があれば、何も望みません!