mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

銀幕を飾る、溝(ドブ)板から才色兼備マダム

 
1977年11月18日金曜日、フジテレビ系ゴールデン洋画劇場放映よ
ライザ・ミネリは27歳で、1973年のアカデミー賞ゴールデングローブ賞の主演女優賞をダブル受賞した
1965年、19歳でブロードウェイミュージカル‘Flora the Red Menace’でトニー賞主演女優賞を受賞しており
ただの亭主とっかえひっかえアル中BBAじゃないんだよね





娘の舞台デビューの夜、ママが舞台袖か、娘を突き飛ばしたという
娘の成功に嫉妬してと言われたが、娘曰く、「ママの愛情です」
「自分がマイク向けられたり目立てば、娘は所詮親の七光的評価を避けようとしてくれたんです」
ま、幼い娘が実質的な大黒柱という母子家庭でもあったしね
「先週は庭付きのお屋敷に住んでいたと思ったら、今週はホームレスという、そういった繰り返しでした
ホームレスの時には、ママの面倒見ながら、物乞いに行った事もありました」
何しろ薬物中毒ママだ、児相案件の暮らしの日が多かったって
1969年に47歳で亡くなった時など、フランク・シナトラが葬式代を出してくれたほど素寒貧だった




1945年、映画監督のヴィンセント・ミネリと結婚、翌1946年3月に娘でのちに女優および歌手となるライザ・ミネリを出産。ライザは2歳時の1949年に、映画『Good Old Summertime』でデビューしている。

1949年に映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に明白な精神異常状態になったジュディはアニー役から下ろされ、また同年に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻』でも撮影をすっぽかすなどしたため主役を降ろされた。

1950年公開の『Summer Stock』(日本では劇場未公開)の撮影時1949年、以前と比較して20ポンドも太り、撮影をまたも振り回した。結果的にダイエットを成功させたが、次回作が頓挫したことを契機として、業を煮やしたMGMを解雇されることとなる。

1952年にシドニー・ラフトと3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークでのコンサートに拠点を移し、歌手としての活動を行う。これが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力は人々に再認識された。

1954年には再び銀幕に復帰した。当時の夫であるシドニー・ラフトは彼女のために企画会社を立ち上げ、MGM社に対抗心を持つワーナー・ブラザーズ社の下で撮影された『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞にノミネートされる。しかしワーナー・ブラザーズ社は、彼女の『スタア誕生』撮影期間の遅刻や出勤拒否、それに伴う制作費の膨張に怒りを露わにしていた。ワーナー側は彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行わず、また、アカデミー発表前に「彼女ではもう二度と映画は撮らない」と発表した。結局、主演女優賞は『喝采』のグレース・ケリーが受賞し、ジュディの受賞はならなかった。サミー・デイヴィスJr.は自伝の中で「何故あの時ジュディが敗れたのか、どうしてもわからなかった。誰かが彼女を罰しようとしたのだ」と記している。

Wikipediaジュディ・ガーランドより引用 )

サミー・デイヴィスJr.が主演女優賞プレゼンターを努め、腹を拳銃で撃たれた気分に陥った
一世一代の名演披露したジュディが、それビング・クロスビー主演映画でしょの未来のモナコ王妃に負ける?
とにかくジュディは失意により、再び荒れ始めた
1973年に生きてなくて良かったねとまで思う
娘のオスカー受賞見たら、頭が別世界へ飛んでっちゃうよ




この間、サザエさんを眺めてたら
お泊り行くサザエさんが、タラちゃんの世話について諸々をフネさんに指示
フネさんがハイハイと聞いてるのに、「母さん信頼出来ないんだもの~」と口滑らせた結果
「信頼出来ないって…ワタシはサザエという立派な大人育てたんですよッ」と怒られてた
家庭の主婦同士でこのザマじゃ、我の強い女優同士だと母娘といえど何かと複雑に違いない




我の強い女優といえば、星の数ほど存在する
業界で生き残るのは、スッタモンダ多くても問答無用の才能と実力の持ち主であろう
そりゃま、権力者の後ろ盾あれば
かといって、ご無体過ぎると、権力者が持て余してポイ捨ても考えられるし
最後に物言うのは、枕営業でなく、本業に於ける黄金の腕でしょうよ
ハリウッドでは壁の年齢である40歳過ぎようと、自分で映画製作する地盤持つタイプね




Judy Garland Barbra Streisand Duet - Get Happy / Happy Days Are Here Again
‘Barbra was 21 years old at the time and received an Emmy nomination for her guest appearance.’
鼻のバーブラ姐さんが、ジュディ・ガーランドと並ぶ米国史上屈指の女性エンターテーナーでないかい
映画デビュー作‘ファニー・ガール’で1968年のアカデミー賞主演女優賞授賞
冬のライオン’のキャサリン・ヘプバーンとの、オスカー史上、後にも先にも一度きりの同点受賞となった
投票権持つアカデミー会員数が奇数ならば、絶対起き得ない)
‘晴れた日に永遠が見える’(1970年)で共演したイヴ・モンタンから、「彼女は天才だが、性格はサイテー」
初監督作‘愛のイェントル’(1983年)では、スピルバーグからお手伝いを申し出される荒れっぷり見せた
(その新人離れした完成度がスティーヴン・スピルバーグフェデリコ・フェリーニらに絶賛される一方で
作中のフェミニズム思想の強さが批判、反発を呼ぶ作品となった
ゴールデングローブ賞では6部門にノミネートし、作品賞と監督賞を受賞するが
アカデミー賞では主要なカテゴリーである作品賞、主演女優賞、監督賞の全部、無視され、議論となった
‘サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方’(1991年)も多分に漏れず、彼女以外の部門が候補に挙がった
そのため、ファニー・ガール後のオスカーとのご縁は、1976年のオリジナル歌曲賞のみ
この賞を女性が獲得したのはこれが初めてである


‘スター誕生’主題歌いうのが、皮肉だ…




バーブラ姐さんは学歴だけなら、大学進学しなかったので低い
だから何だっての
大学入学資格が職業選択を左右する国に、高校中退で立身出世果たした女優がいるぞ




昨夜記事に登場したソフィー・マルソー
Premier Casting - Sophie Marceau
映画‘ラ・ブーム’(1980年)主人公ビックのオーディション風景よ

13歳の時にオーディションで数百人の中から選ばれた『ラ・ブーム』の主役でデビューし、一躍トップ・アイドルとなった。実名とイニシャルを変えないように、マルセル・マルソーから姓を採った。

ややアジア人に似た外見が特徴で、これは本人も認めるところである。また、イザベル・アジャーニに似ているともいわれた。(本名:Sophie Danièle Sylvie Maupu。ちなみに、ユダヤ系)

現在もフランスでの人気は高く、女優部門で51%の支持を集めトップになったとも、 最も売れている女優であるとも伝えられる。フランス共和国を象徴する女性像、もしくはフランス共和国の擬人化された自由の女神Marianneのモデルを、2012年より担っている)

デビュー以前

フランスのパリ近郊シェルに、トラック運転手とデパート店員の夫婦の第2子として生まれ、ジャンティイで育つ。兄が一人いる。平日は家族のレストランを手伝い、週末はエソンヌ県ヴェール=ル=プチにある家で過ごした。 両親は9歳のときに離婚している。

私生活

17年にわたり26歳年上の映画監督のアンジェイ・ズラウスキーと生活を共にし、1995年には息子をもうけている。2001年に離別し、プロデューサーのジム・レムリーと同居、のち2002年に娘をロンドンで出産している。2007年以降は『ソフィー・マルソーの過去から来た女』で主役にすえたクリストフ・ランベールと恋人関係にある。

Wikipediaソフィー・マルソーより引用 )

経歴部分長いので端折った




「『好奇心にあふれているけれど、とりあえず無垢な女の子』でいてくれたのは、ラ・ブーム2作のみ」
1984年‘フォート・サガン’でジェラール・ドパルデューカトリーヌ・ドヌーヴと共演
1985年‘狂気の愛’は後にパートナーとなるアンジェイ・ズラウスキとの初の作品
1986年‘デサント・オ・ザンファー 地獄に堕ちて’では何と、ラ・ブームの父親役と歳の離れた夫婦を演じた




ラ・ブーム宣伝のため、1982年春来日した折、日本テレビスーパージョッキーに出演
170cmの長身を抜きに、15歳にしては大人っぽかったのを記憶している
その年、有望な若手女優に贈られるロミー・シュナイダー賞授賞して、思わずギャン泣き風表情も
ラ・ブームは、大衆的な商業映画に過ぎない
シネアスト(Cinéaste)、本格映画人方面から軽視されていたのが劣等感となっていた
1980年代のソフイーは、正直な感想、背伸びしていた感が強い
17歳の少女が一日も早くマダムと呼ばれたがる国とあって(20歳過ぎて女の子気分の日本人、シカと聞いとけ)
「ポスター類をベタベタ飾ったり、子供っぽい」
1988年頃か、日本の映画ファンを悪意ではなく軽くだがズバリ指摘したのも当然ね




監督業は、ズラウスキの影響大でしょね
病気を患っている子供たちを対象に、その子らの夢の実現を応援するフランスの団体「Arc-en-Ciel(虹)」で活動
これは、元々は、障害児教育を目指していた事が根底に流れると見る
何にせよ、記事題名通りよ




ズラウスキというと、‘ポゼッション’(1981年)でイアベル・アジャーニを起用した
イザベルは、トルコ系アルジェリア人とドイツ人を両親に持つ、貧しい移民家庭育ちであった
んで、ズラウスキは狂気の愛当時、次のように言ったんだわ
「ソフィーは商業映画で売れた事から軽く考えられているが、彼女を見くびっているよ
我々が初めて会った時、彼女は、煙草ぶかぶか吸いながら、上品と言えないフランス語を話していた
典型的な労働者階級の少女だった
ところで、ラ・ブームは、中流階級の世界が舞台として描かれた
ソフィーの知らない世界を、彼女は自然に演じたというのは、どういう事だ?
良い女優というものは少なからず、叩き上げ精神旺盛な下層階級から現れる証明じゃないか」