mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

太陽は夜も輝き、迷走して、暗闇の朝を迎える

10月10日=体育の日

mathichenさん誕生年より、ミレニアム前年まで




2010/10/10(日) 午前 4:51 【長距離ランナーの孤独】冒頭の使い回しね
そお昭和人種にとって、10月10日は、体育の日なんよ
ちなみに、ウチのジジィ側明治生まれ祖母さん誕生日でもあった




1964年東京五輪開会式直前に、荒天が突如、ピーカンの晴天へと転じたんだっけ?
2016年10月10日も52年前同じく、晴れの特異日らしい好天でやんす
行楽日和なれど、アタシと財布の双方クタビレ気味だもんで、安上がりなYahoo!本館更新しとこっと
17分毎に登場する三本立てよ




お題は、アメブロ別荘版【長距離ランナーの孤独】使い回し
ほとんど原文のまま投稿するので、2012-03-09 17:34:51に読んじまったつもりでお願いします

一昨日、アルガルベ・カップの決勝で、ドイツと対戦したなでしこジャパンが、3-4で惜敗、初優勝はならなかった
チームの課題を説きながらも残念がっている向きは多いですね
アタクシにすれば、「昨年の自国W杯での雪辱果たせてスッキリじゃ」。昨夜、ゲルマン美女祝勝酒でした
ナデシコお嬢さん方には、「世界に冠たるドイツから五輪出場権奪った以上、優勝が義務」
は強圧ですから、それなりの健闘で許します




ま~五輪なんて…




【栄光と犠牲の戯れ】(2010年2月28日) * 一部変更あり




正直、五輪には全然興味わかない。真央ちゃんだろうがヨナちゃんだろうがヨカッタね
トリノの時は、静香ちゃんにウラミはなくても、日本人選手唯一のメダルにすがりつく俗世に(`∀´)
2年半後のロンドンでの夏季大会も似たり寄ったりなのです。でしょうよ




冬季と夏季の同年開催は負担大きく、1994年のリレハンメル以降、冬季は夏季の中間年開催
アタクシの最初に記憶ある五輪は、札幌(冬季)とミュンヘン(夏季)、つまり1972年と古代大会
氷上に尻モチでも銅メダルのジャネット・リンちゃん、『銀盤の妖精』はカルピスCMでもメチャ可愛かった~
ミュンヘンは…スピルバーグ映画でも知られる通り、パレスチナ過激派によるテロ事件発生でした
後年知った所によると、当時のブランデージIOC会長は反ユダヤと親ナチで有名であり
実際にドイツを去る選手はほとんどいなかったものの、五輪続行決定その他で非難轟々だったそうな




思えば、五輪ってモメゴト付き物なのです
モントリオール(1976年夏季)は、ニュージーランドラグビーチームが南アフリカ共和国へ遠征を巡り
人種差別政策抵抗運動とばかりにアフリカ諸国のボイコット
モスクワ(1980年夏季)は、ソ連のアフガン侵攻直後とあって、西側諸国のボイコット
ロスアンゼルス1984年夏季)は、お礼参りですわな、ルーマニアを除く東側諸国のボイコット
ソウル(1988年夏季)は、ほぼ全地域揃った代わり、北朝鮮があり得ない共催を叫んでいました




柔道の山下泰裕選手は、不本意なモスクワ不参加の無念を、ロス金メダルで晴らしました
環境激変や外貨稼ぎに振り回され、2年後の世界体操競技選手権では醜態さらしたナディア・コマネチ
1976年当時可能だった14歳での参加で10点満点の『白い妖精』、これだけで幸運です




オリンピック・アスリートに対する精神面での支援体制が実施されるようになっている現代
ごく当たり前のことと捉えられるでしょうが…




父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゆうございました。
喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、
立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。
何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

Wikipedia円谷幸吉より引用 )





東京(1964年夏季)、男子マラソン銅メダル獲得した陸上自衛官円谷幸吉選手
「次のメキシコ五輪では金メダル獲得します」と宣言、日本中の期待を集めるも
公私で様々な不運に見舞われ、期待に応えなければとの重圧に押しつぶされ
1968年初頭、カミソリで頸動脈を切って自ら命を絶った、27歳の若さで




円谷選手の哀しい最期が契機となった、苦い教訓の産物なのです。現代の選手への恩恵は…




以下、今日の本題




当時を知るおっさんオバハンによれば





挫折、苦悩の日々

次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されてきた特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出と受理・承認)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。東京五輪で8位と敗北の後、結婚を機に鮮やかな復活を果たしたライバル・君原健二とはあまりにも対照的であった。

さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年(昭和42年)には手術を受ける。病状は回復したが、すでにかつてのような走りをできる状態ではなかった。





「『結婚を2年待ってほしい』と婚約者に申し出たら、『2年も待ったら行き遅れになる』と彼女の父親から断られた
当たり前や。アラサーアラフォーアラフィフ独身貴族でいられるような呑気で幼稚な時代やなかったんやから
親父にすれば子供を一人前にさせる責任あるし、娘も親父に応える義務感持ってた
円谷と破談して、他の男性と結婚したかて責められへん。円谷もわかってたと思う
一つの事だけが死の原因ではないが、結婚認めなかった上官の罪は重いわ
畠野コーチの『円谷には心の安らげる相手が必要である』、これが一番重要やろ
結婚などとは自衛官としての自覚に欠ける?寝言は寝てる間に言えっちゅうねん
一人の人生左右する意味わからん方が、自衛官以前に人間としての自覚に欠けるんや」




破談は避けられなかったにしても、畠野コーチが左遷されていなかったら?
孤立無援に追い込まれるのだけは食い止められたと思います
恨みつらみなどは書かず、親しい人たちに日頃の礼と詫びを述べ、両親に謝罪
淡々とした遺書であるからこそ却って、どうしようもない絶望感が伝わってきませんかね




話が円谷選手から逸れるため、次記事へと続く