mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

人生の戦火と混迷を物ともせず前進するが、男の花道

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あのすさまじいドラマを目撃し、その中で小突き回され、もみくちゃにされ、
おかげでそれまでの過去は一挙に稀薄となった。
後遺症は一生涯続くだろう。
こんごももうあの極限ドラマと比較してしか物事を見られまい。
学んだものは大きいが、失ったものはおそらくそれ以上に大きい。
中年近くなってから決定的原体験を体験するというのは、しんどいものである。

( 『サイゴン陥落の原体験』より引用:‘小説新潮’1985年2月号掲載 )
…今、ふりかえって、「選択を誤ったとき」の切実な思い出がひとつも浮かんでこないのは、
私自身も「人間の条件」を忘れたヒツジの群れの一員として、
ときにぶつくさ文句をいいながらも結局は太平楽にこの世を生きてきたからにほかなるまい。 …

…日々の小さな選択の集積の収支決算がいつか徐々に表面化しはじめ、
棺に入る直前になって人は「オレは然るべく生きた」
あるいは「どうやらオレは選択を誤った」と初めて口にできるのではあるまいか。
だから、まあ、とりあえずは小さなことでくよくよするな、ということにもなるのだが―。

( “PHP” 1985年6月号掲載 )




1940年(昭和15年)11月27日生まれという事は、1975年4月30日のサイゴン陥落当時、34歳
まだ青年期といえる、しかしながら若さだけではもはや通せない34歳の春に、歴史の激変を目撃した
ある一日を境に、人生観の変わる原体験、どれくらいの人が持っているのやら
内容は千差万別ながら、明でなく暗の要素が強烈な場合
「心が折れた~」、リセットすればいい、前を向いて歩こうぜい的楽天発想など
まだまだ何事につけ余裕ある甘ったれに過ぎない
人生観の変わる原体験は、さらなる重荷というか十字架を背負うに等しい
いまどきの34歳が、カネ無いを盾に彼女の時間ドロボー猫したり、「まだ若い」と合コン行ったりとは雲泥の差




娘ミーユンの留学先パリへ行った妻ナウさんは、止宿先で可愛がられる娘を見て寂しくなったらしい
自分のパリ根城とばかりに、ハノイ出張中の亭主が電報を見て腰抜かす金額のアパルトマンを衝動買いした
亭主が日本の従兄に連絡し、借金を申し出たら、相手も「…な、何で、そんなカネが…」
「返せるアテあるのか?」「たぶん、北方領土が返還された頃に」「バカタレ~」
貸してはくれたながら、「お前ら夫婦野垂れ死にしても知らんぞ」の忠告付きというほどの高額だった




ナウさんはその後、さすがに気が引け、「アンタに負担ばかりかけちゃって…」
なお、ナウさんの名誉のため書いておくと
再婚後、職業の資格証持たず、語学力不足のため、専業主婦であった
娘に「いざという時のために」と、大学より先に職業訓練校行けと勧めたのも、自らの苦労経験値からだが
元々、サイゴン下町を戦場とするくらいに「おカネ稼ぐのは楽しい」性分なので
バンコク在住時には、扶養内でのちょっとしたビジネスを展開してのカネは稼いでいた
それはさておき、亭主は、「君の気持ちが落ち着くのであれば、君の選択は間違っていないよ」
ナウさんが、彼女より年長者が大半を占める一族であるものの、家系上、16歳から家長務める事にも理解を示し
衝動買いの後、何ともタイミング悪く、妻に旧正月サイゴン帰省が控えていたのをグチグチ言わなかった
「お正月本番だと、お年玉配るのが大変。グータラ連中にまではねぇ。手土産だけで済む、お正月前に行くわ」
「でも、年寄り連中には纏まったカネ置いて来いよ。皆もう働けないんだからな」
「この間、随分使わせちゃったのに…」
「原稿料入るから大丈夫」




妻は、戦乱の国に於いて、15,6歳から命がけで一家を支えて来た
これから多少、人生を楽しもうと考えても、当然の権利だ
彼女が死に物狂いで働いていた頃、俺はノホホンと親のスネかじりしていた
苦労知らずの前半生のツケを払う番だ




ナウさんとは、物の見事に180度異質だった
そして180度異質こそ、近藤氏がナウさんを選んだ理由
近藤氏は、前妻浩子さんを病気にして死なせた罪悪感を抱き続け
20歳ほどしか離れていない継娘ミーユンに、前妻の二の舞を踏ませまいとしていた
過去の記憶は薄れて行けど、完全には払拭出来ないものなのである
再起を図るため、異質なナウさんを利用した
これだけ生まれ育ちが違うと、決して心の奥深い部分に触れられずに済むだろう
無論、計算ずくで選んだわけではない
アバタまである中年女性が、薄暗い街路で大輪の花の如くニッコリ笑った
初めて出逢った時に心揺さぶられているも大事な要素
苦労人であるナウさんなら、近藤氏と同じように、心の奥深い部分に触れられるのを良しとしないだろう
男女は元来、正反対の存在であり、自分の持たないものを相手で補うように作られている
180度違ったって、歩み寄りがあれば、合わせ鏡となる
ナウさんは自分たち夫婦の取り合わせを、「案外、仏様も公平なもの」
まさにその通りである
近藤氏がナウさんの前に、彼女の暮らす下町の長屋に居候として現れなければ
ナウさんは恐らく、統一後のベトナムで新たに、一人で大家族抱える苦労から逃れられず
ミーユンはパリ留学どころか、果たして義務教育を終えられたかどうか?
ミーユンの明るい未来を切り拓く父親としても、仏さんに選択されたと思う




産経新聞【日本人の足跡】取材当時、ナウさんの従姉が90歳くらいで健在であった
「いい男だった。彼が亡くなった時、皆泣いたよ」
家長の座をナウさんから受け継いだ、あまり賢くないシンママの姪、彼女が少し英語を使える
それ以外の妻一族、特にジジババとは、片言のベトナム語と身振り手振りで会話していたよう
にもかかわらず…
地獄の鬼も涙目になりそうな暴力振るう、妻の伯母に当たる超恐ろしか婆さんの御意に召した
年長の義甥が、自宅に招き、「オレの伯父さんだよ」と皆に紹介した
1975年のサイゴンから去る日には、妻の義理の息子たちから「行っちゃうの」と寂しがられた
(兄弟がその後実母の故国フランスへ移住する前には、「東京で一緒に住みたい」という手紙まで届いた)
…近藤氏は1986年初頭、45歳で早世した
行く末を案じていた娘が一人前になる直前での死だった
最期の瞬間まで、戦火と混迷のインドシナは無論、人情溢れた細民街が目の前に繰り広げられていたのか?




人生のいちばん長い日を迎え、希望と慟哭のどちらに向かうかは、人々の数だけ千差万別
敢えて苦労を選択した男の人生に悔い無しとは確信する
奥深い人間愛の持ち主だけが、男女や家庭環境、国境を越え、信頼を得て愛される




個の尊重だ自由だと、己に課せられた義務から逃げる、現代ニッポン男児を甲斐性無しと呼ぶ由縁だよ
(現代ニッポン女児の方は、アタシゃ口悪いから、「男や親、福祉に股ゆるクソBitch」ね~)