mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

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「フットボールは修羅場だ!」をDNAに打ち込んだれ

代表監督内定、ハリルホジッチとは何者か
その知られざる素顔と人脈、苛烈な人生

千田善 2015年3月5日 20:10

名前の由来は「唯一の・親友・指導者の息子」

サッカー日本代表の新監督に、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身で、前アルジェリア代表監督のワヒド・ハリルホジッチが就任する見通しであることが、JFA(日本サッカー協会)の霜田正浩技術委員長によってアナウンスされた。3月12日に行われる理事会での承認後に正式契約する。

ハリルホジッチといえば、昨年のワールドカップ(W杯)でアルジェリア代表を率いて史上初めて決勝トーナメント進出を果たし、王者ドイツを延長戦まで追い詰めた健闘が記憶に新しい(2-1でドイツが勝利)。また試合終了後に、選手を讃えながら男泣きした場面なども心に残った(熱血漢で、選手のやる気を引き出すモチベーターなのだ)。

現役時代はFW。強烈なキックとヘディングが印象的なストライカーだった。指導者としては、現役時代にプレーしたフランスを含め、おもにフランス語圏で活動。パリ・サンジェルマンの監督だった2004年、レジオン・ドヌール勲章(フランスの最高勲章)を授与されている。

その長い名前には、それぞれに意味がある。ハリルは「親友」、ホジッチは「指導者(ホッジャ)の子孫」。そしてファーストネームの「ワヒド」は、アラビア語の「独特な」「唯一の」に由来する。つまり、ファーストネームは「スペシャル・ワン」なのだ。果たして、ワヒド・ハリルホジッチとはどのような指導者なのか? 以下、彼の足跡を駆け足で振り返ることにしたい。

同郷の先輩、オシムとの不思議な縁

ハリルホジッチは、ボスニア南部のヘルツェゴビナはヤブラニッツァの出身で、1952年(昭和27年)生まれの62歳。ベレジュ・モスタルのエースとして、ユーゴスラビアカップ(あるいはチトー元帥カップ)で優勝(81年)。ユーゴスラビア代表として、82年のW杯スペイン大会にも出場している。だが、ここで注目したいのが、同郷の先輩(11歳違う)、イビチャ・オシム元日本代表監督との不思議な縁である。

実は81年のユーゴ杯決勝で破った相手は、オシム監督のジェリェズニチャル・サラエボだった。この試合、ハリルホジッチの2得点でベレジュが3-2の逆転勝ち。現役時代はオシム監督のタイトル獲得を阻んだライバルチームのエースだったわけだ。指導者になってからも、両者の親交は続く。オシム率いる日本代表が、アジアカップ予選でサウジアラビアを訪れた06年9月、たまたま試合会場となったジェッダのアル・イテハドの監督が、ハリルホジッチだった。オシム・ジャパンは時差ボケ対策のために、午後11時にジェッダに到着すると、そのままスタジアムに直行して深夜2時まで練習を行ったのだが、その際にもハリルホジッチがわざわざ見学に訪れて、オシムと旧交を温めていた。

それから2年後、2人は日本で再会を果たしている。08年のキリンカップで、ハリルホジッチコートジボワール代表監督として来日。その前年に病に倒れてリハビリ中だったオシムは、横浜・三ツ沢で行われたコートジボワールパラグアイの試合を観戦している。その日、ハリルホジッチオシムに、ユニホームをプレゼントすることを約束していた。ところが、オシムが試合後の混雑を嫌って早めに帰りたがっていたため、まだ試合中だったにもかかわらず、ベンチに座っていた選手に有無も言わさずユニホームを脱がせて、それを持って帰ってもらった。なかなか義理がたい人情家(?)でもある。ちなみに、オシムにユニホームをプレゼントしたのは、コロ・トゥーレだった。

民族紛争に巻き込まれて銃撃を受けた経験も

ハリルホジッチ自身のキャリアについて、もう少し深堀りしてみよう。

現役時代はユーゴスラビア代表としてW杯を含む15試合に出場、8得点。代表の出場試合数が多くないのは、いわゆる旧ユーゴの「ビッグ4」(ベオグラードレッドスターパルティザンディナモ・ザグレブハイドゥク・スプリトの4強)所属ではなかったからだ。もっとも本人は「ベオグラードのスタジアムの電光掲示板には、オレの名前が長すぎたからだろう」と笑い飛ばしている。ボスニア人(正確にはヘルツェゴビナ人)らしく反骨の頑固者で、同時にユーモアのセンスも兼ね備えているのだ。

ハリルホジッチは28歳で、プレーの場をフランスに移している。最初のクラブはナントで、移籍2年目でリーグ優勝をもたらし、自らも得点王に輝いた。この大西洋岸の町で、81年から86年まで163試合に出場し92ゴール(得点王2回)。86-87シーズンにはパリ・サンジェルマンに移籍し、そこで現役生活を終えている。

指導者としてのスタートは90年、古巣ベレジュ・モスタルから。この時にはボスニアに広がった民族紛争に巻き込まれ、あやうく生命を落とす経験をしている。92年の春、自宅前の路上で銃撃戦が始まった。ハリルホジッチは何とかそれを阻止するべく「戦争になったら、みんなが敗者だ!」と叫んだ。名門ベレジュの監督として顔が知られていたので、双方とも撃つのを止めるだろうと考えたのだ。しかし自身に銃弾が命中し、自宅の庭で重傷を負ってしまう。

ハリルホジッチはけがをおして、病床でテレビの取材に応じて、戦争を止めるように訴えた。この発言のせいか、民族主義者からたびたび脅迫を受けている。その後、ボスニアの戦争が激化し、サッカーどころではなくなると、知人を頼ってフランスに脱出。直後に、モスタル市内の自宅は民族主義民兵によって焼き払われた。このてんまつは「モスタルのワハよ、生きているか」と流行歌の題材にもなった(「ワハ」とはハリルホジッチの愛称)。

フランスのサッカー界では知る人ぞ知る存在

ボスニアでの戦争が終わった95年以降、ハリルホジッチは指導者として再出発する。97年には、モロッコの名門ラジャ・カサブランカを率いてアフリカ・チャンピオンズリーグ(CL)で優勝。フランスに戻ってからは、リールを躍進させて名将の評価が定まった。リールの監督に就任した98年、クラブは2部に降格して間もなかったが、2年目に2部で優勝して昇格を果たすと、いきなり優勝争いに絡んだ。最終的には3位となり、クラブ史上初となる欧州CL出場権を獲得している。99年にはフランス最優秀監督賞に輝いており、フランスのサッカー界では知る人ぞ知る存在なのだ。

その後、パリ・サンジェルマンディナモ・ザグレブクロアチア)などの監督を歴任。さらにコートジボワール(08~10年。W杯南アフリカ大会の直前に解任)、アルジェリア(11~14年)の代表監督も務めている。ブラジル大会後、アルジェリア代表に留任するよう署名運動まで行われたが、「単身赴任を3年も続けたので」続投を固辞。しかし実際は、大会前のメディアの批判がガマンできなかったことが理由らしい。その後、以前指導していたトラブゾンスポル(トルコ)に復帰する契約を結んだが、その直後にACミランからのオファーが届いたため、本人は「しまった!」と思ったらしい。もしミラノ行きが決まっていたら、日本代表監督に就任する話はなかっただろうし、むしろ「本田圭佑のチームの監督」として知られていたはずだ。

サッカーの特徴としては、自分のチームの特徴や対戦相手に応じて、さまざまなシステムを使い分ける戦術家として知られる。ハードワークを通じて、ダイナミックなコンビネーションを要求する。規律には厳しく、選手の士気を高めるモチベーターとしてカリスマ的な面を持つ。練習はきつく、要求のレベルが高いが、選手からの人望は厚い。その反面、経営陣の派閥争いなど、サッカー以外の雑音にはへそを曲げる傾向も。とにかく頑固で、水に合うチームでは数シーズンにわたって結果を残すが、そうでないと数カ月で辞任するという、両極端の傾向を持っているようだ。

日本人選手や協会との相性は、やってみなければ分からない。が、規律や献身性などで意外にフィットするのではないかとも思う。いずれにせよ、メディアも含めたサポートとバックアップ態勢は重要となるだろう。

http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2015/columndtl/201503050003-spnavi )








敵に分かれる関係に陥った幼馴染のキリスト教青年とイスラム娘が駆け落ちした
命懸けの行動とはいえ橋の上で銃撃される結末迎えた悲劇を題材にした歌、タイトル何だっけ?
ユーゴスラビア紛争はたかだか20年前に起きた悲劇であり、ハリルホジッチも似た話を多く見聞きしたろう




フットボールは戦争だ!という奴は、本当の戦争を知らん」、これは、ズボニミール・ボバンの言葉
コソボ紛争を巡り、TV局が敵同士の対話の場を設けたら、熱くなりながらも対等に話し合ったケースを見た
綺麗事だけでは負の連鎖断ち切るは難しく、痛みを伴うものの



「戦争になったら、みんなが敗者だ!」、その通り

けど、打たれ弱い青いフナ侍どもを目にしたら、撃ちたくなったりして




平和ボケから却って、1930年代ドイツっぽくなりつつある現代日本の空気を感じ取ったりもね
ハリルホジッチさん果たして冷静沈着に務まりますやら