mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

王子と姫はメデタシメデタシの後、茨の道を歩む

早朝、grunerwaldさん最新記事へ出かけたら
ポーランド生まれのドイツ人指揮者クリストフ・エッシェンバッハの振るR・シュトラウスカプリッチョ記事だが
オーストリア人指揮者フランツ・ウェルザー=メストについて、コメント欄で触れておられたので
ウェルザー=メストって、彼ももう54歳
指揮者としては若くても、いい加減大人しくなるのが賢明ですわ
30代の若年でロンドン・フィルチューリヒ歌劇場と、良い位置に恵まれ過ぎたのやら」
真っ昼間に再訪すると
「Mathichenさん、そうこう言ってる間にメスト辞任のニュースが飛び込んできました。」
‘Vienna State Opera’s Music Director Resigns’The New York Times




grunerwaldさんの感想として
ザルツブルク音楽祭で突然キャンセルするわ
振らない予定でズービン・メータと発表された後になって今年の♪ばらの騎士を振ると発表するわ
何だかマネージメントに混乱招じているのは、何となく感じていたが、やっぱりと言う感じとの事




mathichenさんの感想としては、「ま~た、やりおったんかい(溜め息)」「トラブル男の腕上げたな~(感心)」
メスト君(この呼び方に慣れてるんでそう書く)といえば、2010年にウィーン国立歌劇場音楽監督就任した
オーストリア人としても、ドイツ圏出身者としても、カラヤン以来約半世紀ぶりの就任となった
ん?カラヤンベーム爺さんに陰謀を仕掛け、メッチャ怨まれた舞台となった場所がウィーン国立歌劇場だわ
ウィーン国立歌劇場といえば、フットボールで言えば、そうやね…
JFAなんてただの因業、FIFAがこの世の悪魔勢揃いに見える伏魔殿中の伏魔殿」
とにもかくにも楽しい火事場見物出来る、オペラ以上に面白い舞台と言えよう
修羅場が日常的に起きるらしい場所を大混乱させるなんて
メスト君よ、20年以上前にトラブル男と見込んだアタシの目は確かだった。有難うさん。自信持てたわ~




英国音楽の第一人者として知られた音楽評論家・三浦淳史(1913年11月1日 - 1997年10月13日)
昔々、音楽雑誌‘レコード芸術’が、『スクラムサイド~三浦淳史の音楽切抜帖~』という連載を持っていた
mathichenさんはレコ芸大量処分後も、スクラムサイド切抜帖を永久保存中なんだけど
「調べてみろ。メスト君がお題の切抜あるはずだぞ」と悪魔の声が囁くので調べたら、「あった~♪☆」
『(108)フランツ・ウェルザー=メストはLPOを世界的にすることができるだろうか?』(1991年12月号掲載)





1960年8月16日、リンツにおいて、肺疾患の専門医の父と国民議会議員の母のもとに生まれる。14歳で地元の音楽高校に入学する。ここで作曲家バルドゥイン・シュルツァーに学ぶ。当初の志望は指揮者ではなくヴァイオリニストだった。

ところが1978年11月19日、シューベルト没後150周年記念日にシューベルトピアノ五重奏曲『ます』の演奏のため会場に向かう途中、交通事故に遭遇して背骨を3ヶ所も折る重傷を負い、ヴァイオリニスト志望の断念を余儀なくされた。そして志望を指揮者に転向し、ミュンヘン音楽大学に進学、1979年のカラヤン国際指揮者コンクールでは参加者中最年少ながら、セミ・ファイナリストの一人に選ばれる。

はじめは地元リンツの、その後はオーストリア全体のユース・オーケストラの指導を通じて指揮者としての経験を培う日々を送る中、演奏を聴いたアンドレアス・フォン・ベニヒセン男爵がマネージャーになることを申し出、1985年には養子縁組関係を結ぶ。また、前後して元の姓名フランツ・メストからフランツ・ウェルザー=メストに名乗りを改めた。(ウェルザーとは、ベニヒセン男爵ゆかりの地であるリンツ近郊のウェルスに由来する。)

姓を改めた後のウェルザー=メストは、スウェーデンのノールショピン交響楽団の首席指揮者に就任、スイスのヴィンタートゥール・ムジークコレギウム管弦楽団の指揮も任され、指揮者としての本格的なキャリアを重ねていく。1986年、ヘスス・ロペス=コボスの代役としてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してモーツァルトのレクイエムを演奏、大成功を収め、同楽団との関係を深めていく。この頃からEMIへの録音も始まっている。

1990年、クラウス・テンシュテットの後任としてロンドン・フィル音楽監督に就任。1992年にはロンドン・フィルとともに初来日を果たす。この時、同行していた前音楽監督テンシュテットが、急病により自身の全ての演奏スケジュールをキャンセルして帰国したが、テンシュテットが指揮する予定だったコンサートも含めて、ロンドン・フィル滞日中の全コンサートをウェルザー=メストが一人で指揮した。その後、1995年にもロンドン・フィルと再来日を果たしている。

Wikipedia:『フランツ・ウェルザー=メスト』より引用 )





mathichenさんの韓国系弟分が、「んなワケあらへんわ~。テンシュテット返せぃ」
1985年に喉頭癌を発病以来、何とか指揮活動、それだけで大変なんだったから許したれよぉ
とはいうものの、LPOに於けるテンシュテット評を見ると
「我々はクラウスのためなら120%の力を出し切る」(匿名のロンドン・フィル楽団員)
「彼の音楽理論オットー・クレンペラー以来もっとも深いものであろう」(タイム誌)
テンシュテットなきロンドン・フィルミック・ジャガーのいないローリング・ストーンズのようだ」(ガーディアン紙)
確かにミック抜きのストーンズなんて、サッサと解散しやがれ年金心配いらんやろの爺さんどもだもんな
こりゃ誰が後任来ようが、先代の亡霊払拭するのは苦労するぞと見ていた
案の定、楽団員と軋轢他が生じ、確固たる信頼関係を築くまで至らず
メスト君は2度目の来日から間もなく音楽監督を辞任した




捨てる神あれば拾う神あり。同年、チューリヒ歌劇場音楽監督に就任する
ここでの成果はめざましく、それまでやや地味な存在だったチューリヒがドイツ圏でも有力な歌劇場に躍進した
メスト君の活躍は個人的見解では、当時の総支配人の手腕が大きいと思う
現在ザルツブルク音楽祭芸術監督務めるアレクサンダー・ペレイラ
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/classic_concierge/2013/253/
海千山千の怪しいオッサンが、青二才を巧妙に飼い慣らし、小僧と歌劇場の立身出世を一石二鳥という感じでさ




三浦スクラムサイドを読み返すと
メスト君自身はLPO音楽監督就任に当たり、独裁者タイプになりたくないと言いながら
LPOが自主運営楽団にもかかわらず、楽員の罷免及び任命権などを手に入れていた
詳細は長い。紙切れだからコピペ出来ない。古本屋行って、『レコード芸術1991年12月号』検索しとくれやす
どうあれ最初に読んだ頃と、LPOその後を照らし合わせると
メスト君が指揮者としては有能は認めるとしても、本人の中身に関しては、「何だかね…」と胡散臭く見ていた
だって、grunerwaldさんへのコメント最後に
「ちなみに、彼も、男爵家の養子( * エッシェンバッハが養子育ち )となり、その支援で世に出たのに
養母とデキてしまい、養父と絶縁したそうです(笑)」
これは資料どっかへ行方不明中だけど、大爆笑した記憶は鮮やかでやんす
男爵は男爵で、若いソプラノねーちゃん?とデキてしまい、お互い様の似たモノ親子っつうか
母ちゃん年増美人?それとも、生意気そう、でも育ちは良い風情を身に備える坊やの魅力活かして?
何にせよ、立身出世のためなら何でもする準備持つ。並々ならぬ野心を感じ取ったもんだ




現在、54歳。指揮者としては若僧の部類。これからが見物ですかね
それなりの紆余曲折は経て、ウィーン国立歌劇場と、ステータスでは頂点を極めた
下方修正するの大変じゃないの?面白過ぎる。当分チェックしとこっと




なお、mathichenさんが何故、『メスト君』と呼ぶか?
別に深い意味はございません
メスト君ファンの女性との間でそう呼んでいただけの話




メスト君ファンの女性というのは、名古屋市栄区在住の主婦
1992年初来日時、NHK教育テレビで放送されたLPO演奏会を観て気に入った
録画しなかったので、‘音楽の友’読者欄にVHS求むを載せ、mathichenさんが応じ、付き合い始まった
旦那さんと二人で喫茶店営んでおり、ゆっくりレコ-ド屋へ行けなくてね
mathichenさんが大阪市内のレコード屋行って、メスト君始め希望するCD買い求め、宅配便で送ってたの
↓のCDも宅配した一つ





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メスト君指揮LPOによる、演奏会形式のレハール喜歌劇♪メリー・ウィドウ
1993年、BBCプロムナードコンサート、通称PROMSでのLive収録




ダニロヴィッチ伯爵役、カラヤン指揮のDG盤で歌ったルネ・コロが好き~♪
テナー、バリトンどちらでも歌える役だが、EMIって何故、いつもバリトン当てるんだろうね
トーマス・ハンプソンはサル顔でも男前、大好きだから許す
そーいやァ、彼は確か、ウィーンの男爵だか侯爵の奥方とデキてしまい、結婚にこぎつけ家庭円満だっけか
…これも、備忘録のうち、他意はございませ~ん




メスト君盤は、台詞の部分をナレーションで情景説明させたもの
ナレーション担当したのは、英国の名優ダーク・ボガード
大口開けてベラベラ喋るアメリカ英語と違い、声調控え目の格調高いイギリス英語が耳に心地良い
言葉よくわからない人にだって、情景が目に浮かぶだけの説得力持つ
ただ日本盤では、歌はドイツ語で合わず一般受けしないとの判断でしょな
ナレーション部分はカットされ、音楽部分のみ
そこで名古屋へ日本盤を宅配する際、mathichenさん所有の海外盤を一緒に送ったら
エライ気に入り、「譲って~」。CDは惜しかったものの、一儲けした次第




ダーク・ボガードといえば
【慕わしき幻影に寄せる歌】(今年2月18日)
「‘ベニスに死す’、ヴィスコンティマーラーをモデルに描いたといわれる主人公
老作曲家アッシェンバッハがホテルでの初日の夕食前に、一目惚れしちゃった美少年タジオ登場場面において
宿泊客の集うサロンで、ホテルお抱え楽団が♪ヴィリアの歌を演奏していたのは
メリー・ウィドウ初演(1905年12月30日)から数年後が舞台と時代が近く
ジジィが美少年への浮かばれない想いを描いた映画に相応しいと
イタリア名門貴族の教養あふれる小倅にして、生涯に渡りバイセクシュアルであることをオープンにしており
アラン・ドロンとの関係の噂もあり、ヘルムート・バーガーに至っては、死後に自らを実質的な未亡人と称した
父ちゃんもバイセクシュアルであったという、監督の渾身の一作に深み持たせる選曲ちゃうんかい」




老作曲家アッシェンバッハは眼鏡をかけ、なるほどマーラーっぽい風貌
メスト君が爺さんになると…の顔に見えるの、mathichenさんだけ?
マーラーといえば、彼もウィーンと相性悪かったね
1901年、ウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し
ウィーン宮廷歌劇場=現・ウィーン国立歌劇場の職は継続ながら、ウィーン・フィルの指揮者を辞任した
51歳の誕生日の6週間前に早世するも、後世に残る名作群遺せたのは良かったヨカッタ
メスト君の末路は、さて?ハテ?
拾うてくれる物好きな神さん、まだおるやろ。強力なパトロンの協力を得とけよぉ
この際、あの世行きした亭主の遺産注ぎ込んでくれる婆さんでも、美青年大企業家でも、選り好みするな
異国ヴェネツィアコレラ罹患ならぬ、故郷リンツでエボラ熱罹患したかて知ら~ん




記事題名はウェブリ休憩所のを使い回しの苦し紛れ~




Gedda, Rothenberger, "Es waren zwei Königskinder", Die Lustige Witwe
メスト君盤がどーしても見つからんのじゃ~と前置きして
「昔、王子と王女がおりました
二人は愛し合っていたと思います
でも、結婚出来なかった
王子がわけを話さなかったから、王女は悩み、試そうと企み、浮気のフリをしてみました
王子はやきもちを焼き、何とハシタナイ女だ、この私が傷つくかって?とんでもない!
『行きたまえ。お似合いの相手だ』
そして王子は去って行きました」




王子(ダニロ)は、王女(ハンナ)が本心を口にしなくてイライラ
彼が過去に彼女をキチンと導いていなかったから、惚れてんの?どおよ~フンッの悲喜劇起きたんじゃん
王子が王女を振り回すから、王女は困り果てての一芝居打ったんでしょが
運が悪けりゃ、王子アンタは、王女はもちろん、王女が背負う国の金庫をドブに捨てたようなもんだったわ~




自分を大事に思ってくれる人が、いつも優しく接してくれると限らない
厳しく当たるのも愛情かもしれない
そういう人に巡り合えたら、ドツボはまる一方だけは避けられるかもね