mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

Frauenliebe und Leben. 戦火に散った女の愛と生涯

偏執的なまでに何十年と探求するものを、人は誰でも持ってませんかね
mathichenさんの場合、『ドイツ』
ミュンヘン五輪以来?ハイジ以来?1970年代からには違いない




1990年代、アタシの前世は大英帝国臣民だったと信じていた
2012年現在、ドイツ系ユダヤ人(ユダヤ系ドイツ人と置き換えてもいい)だったんじゃないかという気がする
よーく考えてみよ
世界首都ゲルマニア、あんな誇大妄想を真剣に着手する、凝り性のドイツ人
ナチハンターや、政敵撲滅マニアのモサドを見てわかる通り、執念深いユダヤ
不倶戴天の敵ながら、ある意味似た者同士だ
この両者の性質合わせ持ったら、どーなるか?




アタシの特権は、ドイツとユダヤ双方の視点で考えられる事かいね
長くなるので細かく書かないが
どちらも善悪を合わせ持つ。強引に白黒つけたがるハリウッド公式は無意味に近い
現代日本に都合のいい証言だけを取り上げ、加害者側自身が目撃した被害者の実情を無視するのは愚かしい
そんな感じだ




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‘ファニア歌いなさい(Playing for Time)’
1980年9月30日、米国でドラマ化され、1981年11月26日、テレビ東京でも放送された
大阪では、テレ東との系列以前だったので、同年12月24日頃、KBS京都でのUHF局ザラザラ画面で観た
1990年1月7日頃にも、毎日放送で、アタシのTVが室内アンテナ故にやはり綺麗じゃない画面で観た
1996年1月2日と3日には、NHK-BS2でようやく綺麗な画面で観られた
原作はといえば、1983年2月1日、17歳の誕生日に、元料理番ババァに買わせた




【魂は軍靴に踏まれて】(2011年1月24日)





ファニアが初めてマンデル女子隊長を見た時の印象
「世界に冠たるドイツ民族の最高のサンプルといった女性
雌犬として理想の種だ
民族再生産に従事せず、こんな所で何してるのだろう」




ポーランド系収容者から半ば取り上げた格好の坊やを、綺麗な服着せて、おやつも与えて、手元に置いて
1週間ばかり、収容所内を坊や自慢、周囲驚かせた後、マンデル自ら坊やの手を引いてガス室に連れて行った
誰かの話によれば
マンデルは、かつてユダヤ人男性に恋した経験があるため、自分を厳しく断罪しているのだという…




この話を20年かかって消化し、それから8年後ブログに書き残した




実を言えば、アーリア民族代表のみならず、ユダヤ民族代表にも関心強かった
マンデルと同じくらい、楽団指揮者のアルマ・ロゼにも、女性としての部分に目を止めたのよ








父親は、ウィーンフィル首席奏者だったアルノルト・ロゼ
母親は、作曲家グスタフ・マーラーの妹ユスティー
音楽的な家庭環境にあった事から、職業音楽家になるべく専門的な音楽教育を受け
1932年には高水準の女性楽団も結成するなど、きわめて成功した部類の女性音楽家




ファニア回想録では、「冷たい心を持った独裁者」という捉え方であったため
「ロゼの最終的な関心は、楽団員の福祉を守る事」(事実、彼女の在職中には、一人の死者も出ていない)
他の生存楽団員から異議が唱えられた




結婚
20世紀前半の最も偉大な弦楽器奏者のひとりである、チェコ人ヴァイオリニストのヴァーシャ・プルジーホダ(1900年~1960年)と1930年に結婚するが、1935年に破局を迎える。離婚の理由についてはしばしば、プルジーホダが国家社会主義政権について楽観的な見通しを持っていたためアルマと意見が合わなかったのだと説明されるが、そのような根拠は見当たらない。いずれにせよプシーホダは再婚相手もユダヤ人であった。

Wikipedia:『アルマ・ロゼ』より引用 )






アルマが自分史をファニアに語った部分を読めば








この旦那さん、自信持つならドンと構えればいいものを、妻が自分より有名なのがどうしても気に食わない
出自に引け目でも持つのやら、妻の名声は父親や伯父さんの七光りだろみたいな嫌味言う
しまいには、DVが始まった
アルマ一族では離婚はご法度なので、辛抱の日々送るも
彼がとうとう妻の演奏活動禁止を言い出し、妻の楽器を列車の窓から放り出して壊してしまうとくれば
彼女の音楽に捧げる魂を踏みつけにしたとあれば
相手がわめこうが脅そうが、法的に清算難しかろうが、もう一緒に住む事だけは出来ませんわな
離婚の原因は政治的なものでなく、どうやら男の見苦しい嫉妬にあるらしいとわかる




彼からの求婚であり、彼女は家族の言いなり娘
物心つく頃からずっと音楽一筋に生き、男の子をまともに見た事あったっけ?
好いたハレタの恋愛結婚ではなかったというものの、どんな男と結婚したのか、相手の特徴をよく覚えておらず
しかしながら特別若くない年齢じゃ、贅沢も言えまい
とにかく音楽が何よりも重要で、彼女の人生を支えていた
それでも、戦争直前に知り合った男性とは、彼が彼女の音楽を聴いて評価し、激励してくれるもあって
「毛皮のコートのような愛で包んでくれた」と感謝、正式に離婚出来ない自分を恥じたそう
もっとも離婚成立しても、幸福はつかめなかったであろう
彼女がナチスから逮捕は免れなかったから…




アルマの死因は、食中毒死と推定されている
ファニアは、アーリア系古株収容者による毒殺を主張していた
アルマの死亡日、こちらが、ファニア回想録を読むと謎に近い
ウィキペディアの日本語版と英語版を見ると、1944年4月4日に亡くなったとされる
ファニア回想録では、日時は書かれていないが、同年夏頃の模様
ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ視察が、同年に行われた
ヒムラー御前演奏会をアルマが指揮しており、それ以降が確実と見る
死亡日はともかく、高齢を考慮して父親は娘の死を詳しく知らされなかったのが、せめてもの救い




父娘とも、欧州演奏旅行がかなり自由に認められていた
娘の方は、正確にはオーストリア人ながら、自分をドイツ人と考えており
他家とは宗教が違う程度しかユダヤ人意識持っていなかった
アルマの逮捕はどうやら、嫉妬の激しい音楽界からの密告によるらしく
また、条件付きではあるがビルケナウ出所、従軍して演奏せよの命令出されたを見ても
「わたしたち一族はユダヤ系ながら、ナチが温存を決めた少数民族なのよ」




後篇記事へと続く