mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

楽の調べを新世界より

春眠暁を覚えず。目覚めた所で、本館ネタは無い
今日もまた、小説家志望くずれゆえ、自分でアタクシの脚色能力実験をば
2011年1月19日のアメブロ別荘記事とYahoo!Daysを編集して加筆ざます(記事題名は、Daysの使い回し)
 
 
 
 
 
 
 
 
1986年頃に物心ついていた方々はご記憶ですわな
米国のリリック・コロラトゥーラ・ソプラノ歌手
美声に溺れて発音の正確さを蔑ろにするなどの欠点見られるが、決して下手じゃない
細身で声量イマイチ以下のため、オペラより歌曲向き
無論、オペラにも歌姫として活躍してはいた
 
 


が…
 
 
 
 
一方で、気難しく仕事相手にしにくいことでも有名で、声のイメージを覆すような数々の武勇伝を残している。往年のディーヴァを連想させる気性の激しさと気位の高さに加え、職員の酷使によって、ついにメトロポリタン歌劇場から締め出しを食い、レヴァインなどは、二度と共演を望まないと言って憚らない。しかしその後も演奏活動では活躍を続けており、アンドレ・プレヴィンと共演していくつかのアルバムを制作した。
 
Wikipedia:『キャスリーン・バトル』より引用 )



 
 
武勇伝とは?
 
 


(その壱)
METにおけるモーツァルトの♪フィガロの結婚には、暗黙の了解が一つ
「出演女性歌手では、伯爵夫人役ソプラノが、一番良い楽屋を占領出来る」(理由は知らん)
バトルの持ち役、伯爵夫人の小間使いスザンナ。二番目以降の楽屋止まり
にもかかわらず、「METじゃ、アタシが女王様なんだからッ」
一番良い楽屋へ襲撃をかけ、奥方様の手荷物その他を廊下へとポイ捨て
以来、奥方様に限らずその他の役においても、キャロル・ヴァネスは共演拒否続行中
 
 


(その弐)
1992年かその翌年、R・シュトラウスの♪ばらの騎士に、成金貴族娘ゾフィーで出演の際
リハーサル中、ドイツの新鋭指揮者クリスティアンティーレマンの指揮に気分悪くなった
…ま~ティーレマンの指揮いうたら独特のテンポだ、理解出来る(ネオ鉤十字っぽいとの噂あるし)
とはいえ、歌姫が青二才と怒鳴り合いを展開するハシタナサに加え
楽屋へと引きこもり、「総支配人、出て来ーい。アタシの言い分を聞け~」
総支配人ですか?「マリア・カラス世紀の歌姫なら、話は聞く」(つまり、来なかった)
 
 


(その参)
1994年、ドニゼッティの♪連隊の娘に、題名役マリーで出演決まった
幼い頃に両親(実は貴族)と生き別れ、フランス軍の連隊に育てられた娘マリー
やがて伯母様に当たる侯爵夫人に引き取られ、貴族令嬢教育の一環として歌のお稽古
こんな感じ → Kathleen Battle Part 2 Lesson Scene from "La Fille Du Regiment" 
この場面では、侯爵夫人が自らピアノ演奏するが
これもリハーサル中、共演メゾ・ソプラノ歌手の演奏を、バトルは気に食わなかった
「ちょいと総支配人、ババ様は弾く振りだけしてさ、実際の演奏は舞台裏で誰か代わりにやらせてよ」
総支配人ですか?唸った後、「もう、いい」とつぶやいた。で、お払い箱宣告
当然。侯爵夫人役メゾ・ソプラノ歌手は、MET表裏に愛される、ババァでも何てったってアイドル故に
Opera Star ROSALIND ELIAS makes Broadway Debut
早い話、バトルは『地雷』を踏んづけちゃったワケ~
 
 


…と、思い出しただけで、この惨状
 
 

 
METに雇われたのは、30歳頃。盛りが長い部類でない軽い声質を考えると、決して早くない
誰にでもニコニコして頭を下げ、地道にキャリアを積み、誰からも「キャシー」と呼ばれて愛された
やがて大物へとなるにつれ態度も大物になると、陰で「UN(Ugly Niggerの略。『醜い黒人女』の意味)」
解雇速報が歌劇場全体に伝わるや、裏方が一斉に歓喜の声と万歳三唱状態
歌姫一人の力で、舞台は成立しない。共演者、音楽スタッフ、他の裏方の存在あればこそ
敵に回そうものなら、直接対決に至らなくたって、軽蔑され、運が悪けりゃ職場失う

 

 
いまは亡き≪ワルツ堂 堂島店≫映像担当曰く、「どっかで勘違いしたんやろ」
売れるにつれ、ワガママ通るようになる。ただし、許容範囲の線を越えない限りね
一つ弁護するなら、音楽監督ジェームズ・レヴァインも悪い
同じオハイオ州出身のよしみから、ピアノ伴奏を買って出る他、どんだけ甘やかしたのよ
二度と共演を望まないと言って憚らない?ちょいと音楽監督
 
 
 
 
当のバトル様はといえば、全然懲りなかった
来日ごとに、伴奏ピアニストが代わっている。誰も長続きしないのか?
1998年、プラハでのリサイタル中、伴奏者を連れて突如舞台袖へと引っ込んだ
聴衆は何事かと思う間もなく、舞台袖から聞こえてくる怒鳴り声で事態を理解した
理解出来なかったのは…晴れ晴れとした表情をもって再登場したバトル様の『素顔(怖)』
…ま、姓が、Battle(戦闘)。無理もございません…(><;)

 
 
 
ところで、このバトル様の才能を見出したのは、大賢者Wikipedia様を引用すると
 
 
 
 
 
子供の頃から歌唱力に恵まれていたが、優等生で将来を高望みしてはいなかった。奨学金を得てオハイオ州シンシナティ・カレッジ音楽院に進み、声楽家になる冒険をせず音楽教師の職に就いた。

1971年に修士号を取得し、シンシナティ市内で児童の指導を開始。その間にも個人的に声楽の研究を続け、シンシナティ交響楽団首席指揮者のトーマス・シッパーズのオーディションを受けることになった。まだほとんど経験不足だったにもかかわらず、シッパーズに感銘を与えて、1972年にイタリアのスポレト音楽祭に出演する機会をつかむ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トーマス・シッパーズ(1930年3月9日 - 1977年12月16日)、テニスの王子様っぽい美男子ね
何ですか、バイロイト音楽祭では、オケの連中が指揮台にテニスラケット飾ったそうよ
セスクと似てる気するの、mathichenさんだけじゃないよね?ネ!
 
 
 
 
1967年の♪ワルキューレ日本初演3回中を2回だけ、NHK交響楽団とケンカのためは置き
ハリウッドスターを本気で目指した美男子から、1950年代にMET指揮者入りするも
mathichenさんにとって永遠の歌の女神様リーザ・デラ・カーザのエルザ姫、今度ゆっくり聴こうペタリしといて
当時の総支配人ルドルフ・ビングは、欧州の名指揮者に大枚はたく主義、米国の若造は冷や飯食い
1970年、シンシナティ交響楽団常任指揮者の地位を得て
同楽団とは数回録音を行い、国際的な名声を築き上げた
しかし1977年に肺癌のため急死し、47年の短い生涯は悲劇的な幕切れを遂げた
 
 
 
 
『Tom Schippers and Nonie Phipps Schippers.』
http://www.newyorksocialdiary.com/node/1909721/print
ニューヨーク社交界の華であった奥方も肺癌により、旦那より早く、わずか34歳で早世した
米国の楽団シェフ夫妻は、特に中小都市の場合、町の名士
米国初の黒人シェフが白人の奥方を迎えたのは、聴衆との橋渡しお願いします大きい
それくらいマダムの存在は強力であり、シッパーズ夫人もコツを自然に心得ていて
最後の力振り絞って病院から抜け出し、楽団主催クリスマス会のおもてなしを務めた
死期間際を客人の誰にも悟らせないまでの明るい笑顔の別嬪さんぶりだったという
最期の最後まで、内助の功を見せる。シンシナティ市民の皆が泣いた

 
 
 
米国の楽団は、特に中小都市では、市民の憩いと交流の場
生活必需品に消費税という世界稀に見る因業島国と違い、米国の税法は寄付には非課税(当たり前じゃ)
中流階級以上だと、天国と地獄どっちか行った爺さんの遺産を守る婆さんが気前良く寄付したりする
1977年当時、「21世紀ニッポン人よ、中国の悪口言えんわ」経済力の影響を受け不況に陥っていた米国だけに
愛するシンシナティ交響楽団へ寄贈された、子供いなかった上層中流シッパーズの大いなる遺産が
経営難に苦しんでいた楽団を存続の危機から救ったとは、これまた泣ける…