mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

双面の歴史

建国記念日とやらですか
で、連想した曲のYouTubeペタリ
 
 
 
 
 
 
 
 
♪大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲(詳細はコチラ
 
 
 
 
ナチスへの協力

1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今に至るも多くの議論がある。一方は、彼が第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果彼の孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯した点や、彼は自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚達を保護しようとしたという意見もある。さらにはシュトラウスナチスに利用され続けた被害者的立場だったとの同情的意見もある。

シュトラウス第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどうかで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。
作曲の経緯
 
通説では「日本政府の依嘱により、皇紀2600年奉祝曲として作曲されたが、宗教的な理由や、皇室に対する非難を含むものと見なされたために、日本政府より却下された」とされている。大筋ではその通説は当たっているが、実際にはブリテンの個人事情などが複雑に絡み合っている。
第二次世界大戦が勃発した1939年、ブリテンは個人的な事情により盟友ピーター・ピアーズとともにアメリカに引っ越す。その直後の同年9月3日、イギリスがドイツに宣戦布告し、かねてから兵役拒否者だったブリテンは帰る場所を失ってしまった。次第に生活費に困るようになり、またアメリカが好戦的になっていく姿にブリテンは絶望するようになった。そんな際、知人の出版業者ラルフ・ホークスらが、『日本が皇紀2600年奉祝曲の作品を各国作曲家に委嘱している』という話を持ちかけ、金銭に乏しかったブリテンはその委嘱に乗ることとなった。

ブリテンの回想では、委嘱条件は「1939年9月頃に『交響的作品ならば580ポンド(≒1万円(当時))、序曲や行進曲なら、その半分から3分の1の委嘱料を支払う。1940年5月までに東京に送れ」というものだったようである。承諾後はマイペースで作曲していたものの、1940年3月21日になり、日本側から作品の内容に関する問い合わせがあり、ブリテンはそれに返事をする一方、「馬鹿に完成を急がされている」とも語っている。また、その最中のインタビューで「曲の名前は『シンフォニア・ダ・レクイエム』というものになる。ただ、それはあくまで名前だけ。そして、両親の思い出に捧げようと思っている」と述べたが、何人かの友人が「その題名は日本政府を誤解させる可能性がある」と忠告してきている。

6月頃に作品が完成し送付[1]、ブリテンは約束どおり日本側から委嘱料を受け取ったが、なぜか一桁多い額が送付されたらしく、それに気をよくしたかブリテンは9月頃に来日する気にもなっていた。ところが11月になり駐米日本大使館から「演奏拒否」の知らせが届き、一時は寝込むほどの気を落としたが、後にホークスに「たくさんのお金を貰って、それを全部使っちゃっただけの話さ」とも言っている。送られた側の日本では、通説どおりの論争が起き、「英霊に対する鎮魂」などとこじつけようとする動きもあったが、写譜が間に合わなかったこともあり、「折を見て演奏する」ことになったものの、太平洋戦争開戦もあって結局沙汰やみになってしまった。

^ ブリテンは別の回想で「期限まで時間がなかったので、別の目的ですでに出来上がっていたあの作品(=「シンフォニア・ダ・レクイエム」)を送るしかなかった」と述べている。
初演は1941年3月31日、ジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによる。そして日本初演は1956年2月18日、作曲者ブリテン自身の指揮によるNHK交響楽団による。
 
 
 
 

ベンジャミン・ブリテンさん、「よ~く考えよう。おカネは大事だよぉ」?は置いといて
 
 
 
 
♪大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲
1990年でしたかね、日本テレビの番組で取り上げられました
シュトラウスの息子の嫁がユダヤ人であり、その結果彼の孫もユダヤ人の血統ということになるために、
自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情」
当時存命であった嫁(名前はアンナだったと思う)はお舅さんに感謝の念を語っていたと記憶します
シュトラウスが内心では作曲に乗り気でなかったのは確かなようです
ナチスに協力したかどうかで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となったものの
1950年代辺りまでは、イスラエルで楽曲の演奏禁止だか積極的に取り上げれらない状況だかで
ヴァイオリンソナタ演奏したヤッシャ・ハイフェッツなど、愛国青年に商売道具の腕ド突かれたほど
シュトラウス大先生も何かと苦労された模様
 
 
 
 
アンナ?・シュトラウスのように、鉤十字から黙認されたユダヤ人は結構数存在しました
人心つかむ大演説ぶつ必要ある独裁者にとって喉は芸能人は歯が命と同じくらいの価値持つため
ユダヤ人だろうがドイツ一優秀だってんで、ヒゲの総統主治医に迎えられた喉頭医の他
 
 
 
 
 
 
 
 
1979年、ウィーン・フォルスクスオーパー初来日時、オペレッタ不毛の地日本を湧かせたメラニー・ホリデイ
ミス・テキサス上がりのアメリカ美女
スカートの裾まくり上げながらカンカン踊り披露を5回もは嬉しい♪☆と置き
ホリデイおねえさんが演じたのは
何故かカンカン踊りが得意な、パリ駐在ポンテヴェデロ大使夫人ヴァランシェンヌ
『陽気な後家さん』という意味の作品題名役ではなく、ヒロインは国一番の大富豪ハンナ・グラヴァリ
貧乏地主の若い娘を見初めたカネ持ち爺さんが結婚8日目に自然死してくれたおかげ様の遺産ながら
ハンナの財産が、バルカン半島にあるとされる架空の小国の全財産であり
何が何でも同胞と再婚させ、フランス野郎に占領されるな~との、涙ぐましいオトナのおとぎ話
 
 
 
 
なのですが
 
 
 
 
レハールナチスの関係
夫人がユダヤ人であるにも関わらずナチスの庇護を受けた理由は、「メリー・ウィドウ」がヒトラーの好きな作品であったためである。レハールは「メリー・ウィドウ」のスコアをヒトラーに贈っており、ここからもレハールナチスとの関係がうかがえる。しかし、このナチスとの関係は、レハールと彼の周囲の人々に大きな不幸をもたらす事になる。
「微笑みの国」の台本を担当し、同作品中今もスタンダード・ナンバーとして愛される「君こそ我が心のすべて」を作詞したユダヤ人作家フリッツ・レーナー=ベーダは、ナチスと親しいレハールを頼る事で強制収容所送りを免れようとした。しかし、レハールナチスに夫人のことを持ち出されて、この件に口出しすることを禁じられ、結果レーナー・ベーダは強制収容所に送られて1944年死亡したとされている。この一件以後レハール終戦まで沈黙を余儀なくされた。レハール自身は政治に関してほとんど無関心であったにも関わらず、戦後レハールはこの一件によって「ナチスへの協力者」として非難される事となった。

Wikipedia:『フランツ・レハール』より引用 )
 
 
 
 
 
鉤十字の庇護を受けたが、その下で新作を発表することはなかったんですがね
メリー・ウィドウイスラエルでは、確か1997年まで上演されませんでした
作品が小国の存亡を賭けた悲喜劇と考えると、何か複雑な思いにとらわれるよな…

 
 
 


 
 
 
 
昨年2月11日のアメブロ別荘記事を持って来ました
 
 
 
 
映画監督のフリッツ・ラングユダヤオーストリア
ナチス政権が成立すると、立場は危険なものになった
だが、ナチス宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは映画愛好家であり、ラングの才能を高く評価していた
総統閣下のお好きな‘ヴィルヘルム・テル’の映画化をラングに依頼、亡命を阻止しようとした
アタクシが1982年頃読んだ記述によれば
自分の立場を危ぶんだラングが、「あのぉ、ワタクシは無事でしょうか…」と宣伝相にお伺いを立てたところ
「お~心配いらんよ。当方が保証する」と上機嫌な宣伝相の反応がむしろ怖くて、フランスに亡命したとのこと
総統閣下じきじきの太鼓判ならともかく、相手があのおっかないゲッベルスじゃ、誰でも逃げるわは置き
ただし以上は、あくまでラング本人の言い分であり
最近の研究では、むしろラングの側からゲッベルスに取り入り、映画作家としての延命に必死こいていたとか
 
 
 
 
記事題名は、「表裏一体で見ないと、真実は測れない」という意味ですよ