mathichenの酔いどれ日記【Hatena版】

~midnight dribbler~(ウサギ畑でつかまえて)

ニッポンから来た夫と父親の奥深い人間愛により

心地よい秋の日の午後、皆様いかがお過ごしでしょうか
アタクシはですな
ブンデスリーガブレーメン通信[6] 海外組にとって言語の習得は必須!?』
を読んだ結果、言語および教育と家庭環境について考察しております
 
 
 
 
どこに行ってもそこには人間がいて、その地域の言語を話しての生活している
コミュニケーションを取れるか取れないかでは、大きな違いをもたらす
『郷に入っては郷に従え『という格言もあるように
欧州を目指すからには、言語の習得を筆頭に現地に出来るだけ溶け込もうとする努力が必要である
…言うは易し、行うは難し…
 
 
 
 
以下、今年4月19日の同題名のアメブロ別荘記事を下敷きにして書いたものです
 
 
 
 
サンケイ新聞ジャーナリストだった近藤紘一
中学高校で6年間英語にウンザリ、大学ではフランス語とロシア語を選択しました
フランス語に関しては、かなりの水準に至ったにもかかわらず
パリ留学の際、下宿のババァから、「フランスに来るなら、フランス語勉強して来やがれぃ」と怒鳴られた
と、生活言語というより文学に嗜むに向いていたようです
英語が怪物的に上手い記者仲間もご同様でした
米国留学に向かうハワイの空港で、乗り継ぎのアナウンスが聞き取れず、口惜し涙にくれたとのこと
記者会見の席上では、欧米人記者が英語は朝飯前、二の矢三の矢四の矢をを放つ語学力に遭遇するわ
インドの下町小僧から、「おっさんの英語はオカシイ」と、初歩的ミスを直されるわ
日本人の語学下手って、いろんな要素がからみ合っているにしても、世界でも屈指であるのは確かのよう
 
 
 
 
親の因果子に報いじゃありませんが
 
 
 
 
 
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南ベトナム首都サイゴン生まれの妻と娘
1974年夏、近藤氏の東京帰任に伴い、二人とも日本人になりました
娘ミーユン(以降、呼称であるユン)、当時13歳
戦時下の下町育ちであり、教育水準の低さ、語学力ほぼセロ、思春期の入り口年齢を考慮すれば
世界に冠たる詰め込み教育の日本の学校は論外
近藤夫妻は娘を外国系に入学させると決め
娘は母国の旧宗主国への憧れか、リセ(フレンチスクール)を選択しました
 
 
 
 
年齢より2学年ほど下のクラスに入れてもらったのに
東京移住後3ヶ月も経てば、友だちと電話でペッチャクッチャ話せるフランス語は身につけようが
授業で先生が話す正確なフランス語はろくに聞き取れず、その年は見事落第してしまいました
父親が自宅補習につき合ったものの、フランスと日本の教育の違いに困り果てたんじゃ、無理もない
しかしながら、学校の授業は待ってくれない。弱肉強食で、どんどん上の段階に進んでいく
フランス人でさえ頭抱えるラシーヌモリエールの登場人物の心理を必死こいて説明し
父親の海外再赴任先であるバンコクでは、母親の厳命による英語完全マスターもこなしているうち
東京のリセで第三外国語であるスペイン語(第一と第二は、英語と日本語)もある程度上達したもあり
13歳で止まった形のベトナム語含め、曲がりなりにも数ヶ国語に通じるに至って
パリ留学の結果、難関バカロレア(大学入学資格)を、たった二度目にして合格果たしました
 
 
 
 
「お父さんは優しかったけど、厳しい所もあった。門限を守らなかったりすると、怒りは何日も続いたんですよ」
( * 母親の稚拙なフランス語を指摘した娘を、妻、次に妻の亡母の遺影に土下座させたこともある)
実は世界に冠たる鬼嫁天国のサイゴン生まれ女房は
無学の口惜しさから超スパルタ教育母ちゃんでもありました
父親は「親と子は友だちじゃないんだよッ」と女房から怒鳴られながらも
毎日が圧政下では息も詰まるだろうと、出来るだけ娘とジャレ合ったりの優しさも見せたといいますが
「両親が共に厳しくするのは当然。20歳になって初めて自分で判断出来る
それまでは両親が判断して、正しい道を示さねば…」
一家の実質的主人である女房にも同意し、締め上げるべき所は締め上げていたのですね
 
 
 
 
近藤氏が娘の教育に敏感だった理由として、死別した前妻浩子さんの死に罪悪感を抱いてもあります
外交官の娘で、父親に合わせての世界中を旅ガラス生活の日々
外国系スクールは親の仕事の都合で人の出入り激しく、生涯に渡る親友は出来ず
日本に腰落ち着けることへの憧れが強かったのに
夫のパリ留学につき合い、完璧なフランス語で日常の用事を全部肩代わりしているうち、疲れ果ててしまい…
数多くの友人から、「他人の傷みを十倍ほどにも感じてしまう、並外れた愛の持ち主」と称賛された近藤氏
男の身勝手のせいで死なせた浩子さんを、継父の都合で振り回す格好のユンに重ね合わせたのでしょう
「ユン、ママンと結婚したパパを赦せよな」。子供に頭下げる潔さも持ち合わせていました
 
 
 
 
近藤氏は、1986年初頭、45歳で早世
「パパの喪が明けるまでは絶対に結婚ダメ」と頑強に主張した母親に従ったユン
2年間の喪が明けた1988年の夏、パリ留学の止宿先ルロワ家長男と結婚
近藤氏がナウさんの前に、彼女の暮らす下町の長屋に居候として現れなければ
ナウさんは恐らく、統一後のベトナムで新たに、一人で大家族抱える苦労から逃れられず
ユンはパリ留学どころか、果たして義務教育を終えられたかどうか
 
 
 
 
無論、娘が家庭環境に恵まれているのに甘えず、それなりの努力払わないと実らなかった話でもありますよね