いよいよ「時間切れ」と思った件
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Yahoo!旧本館記事の中から
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スイス移住と死去
1961年、「アンネ・フランクの家」で。ミープ・ヒース、ヤン・ヒース夫妻とともに。
1949年にオットーはオランダ国籍を取得していたが、1952年には母と姉がいるスイスのバーゼルへ移住した。
1953年11月10日にエルフリーデ・ガイリンガー”フィリッツィ”と再婚した。
このエルフリーデはオーストリアから逃れフランク家に近いメルヴェデプレイン46番で暮らしていたユダヤ人で
娘のエファはアンネと同い年で知り合いだった。
ガイリンガー家は1944年5月に密告されてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、
夫と息子は解放寸前にマウトハウゼン強制収容所への「死の行進」を命じられ落命していた。
彼女自身は解放後に生き残った娘とアムステルダムへの帰路に就いたが、
ある駅で停まったとき、娘がオットーを見つけて「たったいまアンネ・フランクのお父さんを見かけたわ」
と告げてきたのがきっかけでオットーと知り合い、マルセイユまでの帰路を同行した関係だった。
アムステルダムへ帰国した後に再会し、関係が深まっていた。1954年2月にエルフリーデもバーゼルへ移住した。
1962年にエルフリーデとともにバーゼル郊外のビルスフェルデンに引越した。
1980年8月19日に死去した。
1963年にオットーがスイスの法律に基づいてエルフリーデと共同で創設した公共財団「アンネ・フランク基金」(在バーゼル)が
オットーの包括相続人となっており、『アンネの日記』に関する権利を相続した。
アンネの日記のaテキスト(手帳、ノート)とbテキスト(ばらの用紙)はオランダ政府に遺贈されている。
マルゴーとアンネは未婚で子供を残しておらず、再婚相手エルフリーデとの間にも子供はいない為、直系の子孫はいない。
但し、エルフリーデの連れ子で義理の娘エファには3人の子供(1男2女)がおり、
子供たちはオットーの血の繋がらない義理の孫、マルゴー・アンネ姉妹の義理の甥姪にあたる。
エファはアンネより1ヶ月早く誕生したので、アンネの義姉、マルゴーの義妹に当たる
「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」、ハンネリ・ホースラル、サンネ・レーデルマンのような親友ではなかったが
町内の友だち関係としてアンネと親しくしていた
アムステルダム帰還後のオットーは、娘たちの行方を求めていた
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所解放直前に亡くなった妻エーディトに関しては
オランダのヴェステルボルク収容所でも一緒だったローザ・ド・ヴィンテルから知らされていたが
ビルケナウからベルゲン=ベルゼンに移送された娘たちに関しては何一つ知らなかった
娘たちに一縷の望みを賭け、アムステルダム帰還を決意した結果
1945年6月、生存者名簿を辿って訪れた先で、エルフリーデ母娘と再会を果たした
この時、母娘の方は、娘から見て父と兄の行方未だし
娘を学校に戻すか、それとも職業訓練校にやるべきか
新生活を始めたもののあれこれ悩むエルフリーデに手助けしたのが、オットーだった
アンネとマルゴーの行方については
1945年7月、ベルゲン=ベルゼンで姉妹と一緒にいたヤニー・ブリレスレイペルが
オランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対して姉妹の死亡を報告を受けたにより
ヤニーと直接面会したオットーにも伝えられた
オットーはその後
渡英して就職するエファに手筈を整え、エファが1952年に結婚する折には証人も引き受けるなど
自分は秘書ミープ・ヒースの家に世話になったりしながらも、エルフリーデ母娘の支援も続けた
(孤児となったハンネリとその妹の支援もした)
ドイツによるオーストリア併合後、エファは両親と兄の4人でウィーンを離れ、まずベルギーへ、後にオランダへ移住した
アムステルダムでは、フランク一家と同じアパートに住んでおり
アンネと同年齢のエファが、11歳から13歳の間、時々一緒に遊んでいた
幼馴染と言うには年齢が高く、学校も異なるはずだし、近所の遊び友達の1人程度でしょね
実際、何かのアンネ関連行事で、司会進行役がエファを「アンネの親友」と紹介した際
サンネはビルケナウのガス室で殺されていたので
2025年に96歳で亡くなったジャックかしらん、とにかくアンネ友人の1人が「親友と言えるのは、ハンネリだよね」
「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」は同じドイツ人で、オランダへの亡命時期も近いしね
アンネは隠れ家生活中、祖母の形見の万年筆を失った直後の1943年11月末に、枕でハンネリと対面し
その時点では彼女の生存を絶望視していたが
皮肉にも2人の最終的な運命は、全く逆になってしまったけどね
※ホースラル一家はパラグアイの旅券を所有していたため
オランダのヴェステルボルク通過収容所を経て、ドイツのベルゲン=ベルゼン強制収容所の「中立国外人」ブロックに収容され
赤十字の支援物資を受けられた
アンネも後にベルゲン=ベルゼンに移送されて来て、ハンネリによると1945年初頭頃に有刺鉄線越しだがアンネと再会出来たという
「パパお爺さんに見えるから殺されちゃった…」と1人決めしていたアンネは絶望のあまり、ボロボロの極みだったとの事
でもま、『アンネの日記』が今も生き続けているのは、義姉エファのおかげ様だ
日記自体を救出し保存したのはオットー・フランクの秘書ミープ・ヒースだけど
1980年に亡くなったオットーの遺品と遺志を継いだのは再婚相手のエルフリーデ・ガイリンガーで
エルフリーデが1998年に亡くなったら一体誰が、直系子孫いないオットーの遺品と遺志を引き継ぐ?
アンネを直接知るエファしかいないでしょ
エファの強みを挙げると「アウシュヴィッツ=ビルケナウの生き残り」
1944年5月、ガイリンガー家はオランダ地下組織の二重スパイの裏切りに遭い、逮捕された
一家はアウシュヴィッツ=ビルケナウに移送され、男子収容所と女子収容所に分けられ
父と兄はオーストリアにあるマウトハウゼン強制収容所への「死の行進」により落命した
母親と娘が最後まで生き延び、1945年にソ連軍によって解放された
娘は看守から「今頃になってココに来るとかw」と嘲笑されたようだが
1944年5月なら戦争も終盤に近いを知っていたのか
それとも、これから約半年間、収容所撤収する10月末頃まで続くガス室のフル稼働を知っていたのか
どちらの意味?
どうあれ、ガイリンガー母娘は、1945年1月27日のアウシュヴィッツ解放時に留まっていた約7500名の囚人の中に数えられるけど
娘は15歳とそれなり成長していた分だけ
収容所内で産まれて外へ出た赤ん坊や、戦後生まれ世代など
収容所の記憶は全く無いだけに、「ホロコ-ストを直接経験した最後の世代として記憶を語る」とは言えない語り部より
遥かに信頼性高くて有利よね
ただ、収容所の記憶持つ90何歳以上も、年々、1人また1人…とこの世を去り続ける
エファが亡くなったら、エファの1男2女が英国の慈善団体「アンネ・フランク・トラストUK」を引き継ぐのか?
引き継ぐとしても、ホロコーストを直接知る世代じゃないから、何かしら温度差があり、今までと同じように進まないかもね
ヒトラーなんか知らないよ~マイ・ファーザー 死の天使~ - 映画、音楽、文学
何かの本によれば、世界で一番不明朗会計と云われるオランダのAF財団がマジ鬱陶しい
AF財団はね、只でさえ内部がよくわからない
今ではAFの名前を盾として営利活動に励んでる感がねぇ…
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