昨日記事からダラダラ続く
この時代、若い女性が1人で気軽に旅行するなんてちょっと考えられないことです。
普通なら家族がキャンセルした時点でお流れになって、また今度行こうね~となりますよ。
いや、この当時は大いに国内旅行しようキャンペーンの、ディスカバージャパンを国鉄が肝いりでやっていたので、
この犠牲者の世代で大量にいた団塊若い女達がそれに乗り旅行しまくってたよ。
アンノン族と呼ばれたくらい。...
このYouTubeコメント&返信は恐らく
昔の女性は何もかも不自由みたいに考える比較的若いオナゴに、いやいや違いまっせを教えてあげる還暦以上親父さんてな感じやろ
半世紀前の社会はなるへそ、21世紀現在のようにオナゴの権利ガーに都合良く作られていなかった
駄菓子歌詞、ウーマン・リブ - Wikipedia
1960年代後半から1970年代前半にかけて、主とし欧米、日本などの国々に於いて起こった女性解放運動
日テレ系『俺は男だ!』で元千葉県知事(森田健作)が、【ウーマン・パワーをやっつけろ!】
【弘二さんあなたの赤ちゃんです!】にシングルマザー本来の意味である「未婚の母」まで登場する
1971年~1972年のドラマだけど、CATV等で再放送観られる現代なのに、知らへん(・・?w
背景
1960年代までの日本では未婚の若い女性が旅行することはごく少なかった。
一般に観光地は、新婚旅行や企業の慰安旅行の男性の団体旅行に対応した
温泉、修学旅行の児童生徒や中高年の訪問者が主体の神社や寺院、
若者(主に男性)のグループ旅行によるスキー、家族旅行の海水浴などが主体であった。
しかし1970年に大阪で開催された日本万国博覧会で、日本にも個人による国内旅行が定着した。
万博の後 当時の国鉄は引き続き個人旅行の需要を喚起するためにディスカバー・ジャパンキャンペーンを始めた。
「あゝ日本の何処かに、ワタシを待ってる人がいる」の1970年代に、オナゴ一人旅当たり前やろなのにw
霧積で殺された被害者は事件当時24歳と、頭数多い団塊世代である
24歳という年齢は現代でも、学歴問わず、預貯金それほど持ってないね
けど独身者なら身軽に動けるから、年1回か2回の国内旅行に出かけられよう
本当、半世紀前でもオナゴ一人旅は別に珍しくも何ともねーよ
ところで、ホームレス他の放浪者を含む一人旅の歴史は古いと思う
日本人の海外一人旅、これはココ60年の間話じゃね
海外渡航自由化 1964 変化したこと at DuckDuckGo
観光目的でパスポートを自由に取得出来るようになったのは、東京五輪開催の半年前、1964年4月1日のこと
その1週間後に出発した「ハワイ7泊9日」の旅行費用は36万4000円、当時の国家公務員の大卒初任給の約19倍もする超高額商品だった
それでも海外旅行の旅費を積み立てながら自由化を待ちわびた人も多く、この年の海外渡航者数は約12万7000人にまで上った
和服姿で飛行機に乗り込む女性も珍しくなかった
積み立ててまでの余裕無い層だと
解答者6名が解答席であるゴンドラに乗り、早押しクイズに挑戦。1
0問正解(10段まで上り詰める)でハワイ旅行と賞金(初期は20万円、後に10万円)が贈られる。
1964年4月からの海外旅行自由化を見据えて企画された。
頭脳と早押し能力を鍛えて「夢のハワイで盆踊り」を狙ったのやら(知らんけど)w
海外渡航が自由になり、そして旅行でも留学でも身軽に動ける若年層が
青年は荒野をめざす(ザ・フォーク・クルセダーズ)昭和43年 - YouTube
こーなっちゃうんでしょかね
女子高時代に読んだのでどの作品か覚えていない大藪春彦の小説にも、1960年代の日本人バックパッカーが登場する
バックパッカーを装う主人公が本物バックパッカーから「アンタ、本当にバックパッカー?」と疑われる場面を憶えている
トラブル相談窓口であるはずがバックパッカーは門前払いで一番役立たずの日本大使館を口にしたのが拙かったと備忘録しといて
航路が陸空海どれを取っても、旧ソ連経由で欧州入りが格安でお得、尚且つ、冒険心を満たせた時代だ
ソ連からフィンランドに入り、南下を続け、最後にスペインが定番かね
スペインちゅうたら、北朝鮮が日本人獲得工作拠点としていた一つ
そこで頭に浮かんだのが、「この時代の若年層は一体、海外渡航費用をどう工面したの?」
親やジジババが援助してくれる家庭ならノー問題
子供の海外渡航に反対や、「バイトなり何なり、自分で稼いで渡航費用工面するならOK」の家庭の場合は?
自分で工面して旅立つ子供は現代に珍しくないが
1990年代初頭、今から30年ちょい前まで
パスポート申請時に海外渡航可能な銀行口座残高証明の要る、VISA発行も手間取る時代だったぞ
つまり、いざの際に備える余裕持って纏まった初期費用が、家族に頼れない学生辺りに用意出来るん(・・?
そこが気になってしゃ~ない
スペインは北朝鮮が日本人獲得工作拠点の一つから何でそーなると言えば
日本人拉致に関わったよど号メンバーの奥方連中に答えがある
当初キューバに飛ぶ予定が、遠距離だと途中捕まる率高くなるので、玄界灘挟むだけの北朝鮮に変更と
全く未知で無知の北朝鮮に飛んだというお粗末な亭主族と対照的に
八尾、福留以外の奥方連中は、皆、亭主より余程共和国に知識を持ち憧れての北朝鮮入りなら、尚更だ
奥方連中に明らかでない部分あるものの、八尾恵と福留貴美子の両名は自身が拉致被害者とされる
前者は、1988年死去?=生存の可能性ある消息不明の後者と異なり
夫婦共に日本潜伏、後に離婚
そして、「私がロンドンにいる有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れて行きました」と証言し、有本家両親に土下座もしている
ロンドンの件、かなり皮肉な話だよ
問答無用の袋詰めで拉致られるのでなく、「就職を決めた自分の意思」で連れ出される格好だからだけど
拉致った側もどうやら、それに近い格好での北朝鮮入りのよう
八尾が拉致られた背景さておき
日本国内での逮捕時の供述に、無理があり、已む無しにせよ嘘だったのは間違いない
供述では、1970年代に渡欧、バイトをしながら何年も旅行を続けていたことになっているが
パスポート申請時に海外渡航可能な銀行口座残高証明、いざの際に備える余裕持って纏まった初期費用の要る時代に、どうやって?
供述通りならば、留学生や海外に縁者がいる場合でないと、まだ難しかった
その当時、働きながら専門学校に通う20歳そこらの若い娘には到底、(ヾノ・∀・`)ムリムリ
八尾のパスポート申請は1977年早々、大阪で慌ただしく手続きがされ、翌2月下旬に、伊丹空港から香港行きの便に搭乗した
手際良さから見て、単独で行われたものと思えず、彼女の渡航を背後から操作した人間がいたことが窺えるね
日本を発つ数日前、親しかった友人に、しばらくすれば帰って来ると伝えている
旅行は短期間で一時的なものと考えていたはず
出入国管理事務所の記録によれば、八尾の渡航先は香港、マカオ、そしてそこで消息が途絶える
香港とマカオ経由で欧州まで連れて行って貰えるみたいな話に釣り上げられたのかしらん
ともかく、香港かマカオで北朝鮮側からの接触、何らかの工作が行わた模様
拉致られていない奥方仲間にも同様の例があるそう
話を北朝鮮から脱出させよう
1960年代に荒野を目指した青年も、1975年を過ぎた頃からボチボチ帰国の途に就く者が増え始めたよう
バックパッカーには、自分探しの旅人の面があるね
「こうなりたい」自分を見つけ、希望する未来が海外で叶う者はいると思うけど、ま~少数派だ
1960年代後半に20歳だとすれば、10年後には三十路で、いつまでも自分探しなんてやってられないじゃん
(やってる者多しの21世紀現在が異常過ぎるw)
帰国者の中には、ディスカバー・ジャパンに走った者もいよう
バックパッカー全員が帰国すると決まってないから
時間の流れが日本と全く異なり、価値観が一変するらしいインド行ったまま逝ってるとかは(・・?
バックパッカーでもヒッチハイクでも、出来る選択肢持つ者は好きにすりゃイイ
ヒッチハイクの場合、超危険の覚悟だけどね
『箱入り娘』の帰還~【FC2版】適応の心理は寡黙、不適応の真理は自己確立(後篇)~ - 時空と想念の交錯
ヒッチハイク中に,、赤ん坊連れの若夫婦なら安全と思ってクルマに乗ったら、誘拐され、 7年間監禁生活だぜ
あ”、ヒッチハイクで思い出した
彼女は路上を選んだ。家もなく法もなく行き着く先は/映画『冬の旅』予告編 - YouTube
孤独に苛まれ、日に日に荒んで行き、飢えに苦しみながら、遂に路上に斃れる
…帰る国や家はあるが、無言の帰宅であれば…
自由には引き換えの代償があることをどちら様もお忘れなく