本日は、毎日毎日、Hatenaに居てもFC2へ逃げても、日本語読めない頭が多くてイライラ~を紛らす記事をば
本物フェミニストっちゅうのはな
運動のために必要とあらば女部分を利用するけど
「人に認められようと期待しなければ、自然と尊敬され、認められるようになるものよ」
「私がここまで来られたのは、他の女性たちが道を開いてくれたから」
「男のいない女は、自転車のない魚のようなものだ」
女だけで世の中変えられると生意気ぬかすド底辺知的水準や、男の横でクネクネしながら自立ガーでは務まらない
矛盾しまくりで詐欺師の資格すら失格級MMなんぞ一昨日来やがれである
同じワルなら、賢いワルを目指さないとね
マーガレット王女が離婚歴のあるタウンゼント大佐との結婚を認められなかったのは、
その少し前にエドワード8世がシンプソン夫人と「王冠を賭けた恋」で王位を降りたから。
本当は、エドワード8世は王位を手放すつもりはなく、シンプソン夫人を王妃にするつもりだったのだけど。
ダメだった理由も離婚歴は表向きの理由で、実際はシンプソン夫人が敵国ドイツのスパイをするようなきな臭い女性だったから。
ついでにエドワード8世だけでなく、何股もかけていた。
エドワード8世退位は、ドイツのスパイを王妃にも王夫人(公式の愛人)にするわけにも行かず、
当時存命だったメアリーオブテック(エリザベス女王祖母)を始めとする王族が別れるか退位するかと迫った。
もちろんスパイ疑惑を公にするわけにも行かず、公式には離婚歴を理由とした。
ただ離婚歴だけでタウンゼントと別れたマーガレット王女はとばっちり。
性悪メガンは、現代のシンプソン夫人。
エドワード8世自身が、ナチ党にシンパシーを感じていた。
実はイギリスにはドイツと融和しようという考えを持つ政治家や上流社会の人間は少なからずいたのです。
カズオイシグロの小説「日の名残り」で執事が使えていた主人もそのひとりという設定でした。
その中で反ドイツ、反ナチが主流となって、
シンプソン夫人は悪女かもしれませんが、その狡猾さや能力において、メーガンとは格が違う。
同列には語れないと思います。
「おかげで、ウチの生来気弱でドモリお父さんが国王になんてッ」
「お姉ちゃんは、一目惚れと結婚出来たじゃん…あ”~ん、最愛の彼氏と結婚出来なかった~ミック・ジャガーと遊んでやるッ」
妹王女に補足すると、「姉王女、昔は超イケメンだった亡命王子に、10代前半でボ~ッとw」
フィリップ殿下の女好き過ぎる血はどうやら、一番顔似てる旧お騒がせ次男王子に受け継がれた模様とワロテ
エドワード8世の姪王女姉妹にすれば、思わぬ重責とトバッチリを受けた格好だわな
ただウォリスの生涯最後は、女王様の本音ともかく
葬儀が英国で王族として執り行われ、遺体はウィンザー城近郊の王立墓地に葬られた
ウォリスにウィンザー公爵夫人として全うし切れる資質と実力備わればこそでしょが
同時代のドイツシンパ女性で思い出したのが
作曲家の長男嫁だよ
本名はウィニフレッド・マージョリー・ウィリアムズと、英国出身であった
2歳までに両親を相次いで亡くし、親戚の間をたらい回しの末、母方の遠縁に当たるカール・クリントヴォルトの養女に迎えられた
この養父がワーグナーの親友だったドイツ人ピアニストで、養女を重症のワグネリアンに教育した
わずか17歳のヴィニフィレート・クリントヴォルト嬢がバイロイト音楽祭に召喚されたのは
45歳で独身のジークフリート・ワーグナーと見合いさせるためだった
ジークフリートは作曲家の4人の子のうち唯一の息子(長女と次女は、再婚妻コジマ・リストの連れ子でワーグナー姓名乗らず)
バイロイト音楽祭がワーグナー家の家業として構想されたため、指導権は作曲家から未亡人を経て、息子に受け継がれるのに
跡取りが両性愛乃至同性愛的傾向で、結婚に興味を示さず、男ばかりの取り巻きを好むとか困る
醜聞を回避するためにも、正真正銘の女性と結婚し子供作って貰わねば
そこで年若いヴィニフレートに白羽の矢が立ち、小娘といえど重症ワグネリアンとあって異存無しで縁談成立
1917年から1920年の4年間に二男二女が誕生した(ちなみに、ジークフリートには1人、私生児が存在した)
第一次世界大戦後のドイツ財政難の中だが、ヴィニフレートは婚家に忠義無双嫁なので
音楽祭の資金集めに奔走したり、大物指揮者の音楽祭出演を説得するなど、良妻ぶりを発揮し、音楽祭に欠かせない存在となる
ヴィニフレートの転機は、1930年に訪れた
90歳越えした姑コジマに続いて、まだ61歳の夫ジークフリートがこの世から旅立った
長男ヴィーラントは13歳、未亡人自身33歳と若過ぎる
当面は劇場の支配人経験のある指揮者ハインツ・ティーティエンを協力者に据え、未亡人が一人で音楽祭運営に当たるも
巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー招聘に成功の他方、求心力の低下は免れなかった
音楽祭存続を願うヴィニフレートに狙われたのが
ワーグナー家の長女フリーデリントと次女ヴェレーナに囲まれるヒトラー
当時のナチス要人、文化指導者の中にあってヴィニフレートの音楽祭運営方針に援助と支持を惜しまなかった数少ない一人であった
ヴィニフレートが、ナチズムの思想に早い段階から共感と信奉を表明していたことも事実である
1923年に初めて出会って以来、総統閣下がミュンヘン一揆に失敗して投獄された際には
食べ物や原稿用紙を差し入れ、結果的に『我が闘争』の執筆の手助けをするという献身ぶりと来たもんだ
総統閣下がこれまた重症のワグネリアンだもんで、彼好み通りの音楽祭を創り上げて感無量に浸らせる反面
音楽祭重鎮歌手のユダヤ人嫁問題で、起用しないでくれ要請を受けても「音楽祭が成立しない」と拒否するなど
結婚するんじゃないかのデマ流れるほど総統閣下と親密な関係を築き上げたヴィニフレートの辣腕によって、音楽祭は生き延びた
ヴィニフレート自身は、第三帝国崩壊後にナチズムへの加担責任を問われ、実刑は免れたものの事実上の公職追放に迫られた
長男ヴィーラント、次男ヴォルフガングに音楽祭を任せ、バイロイトにあるワーグナー家の邸宅ヴァーンフリート荘に隠棲する
が、たびたび、お仲間とお茶会を催し、「総統閣下ってさ、カッコ良かったよね~♪☆彡」に盛り上がる
長女フリーデリントが窘めるほど、総統閣下への変わらぬ敬意を保ち続けるから、そちらでも重症だ
https://www.youtube.com/results?search_query=winifred+wagner+interview+
Winifred Wagner und die Geschichte des Hauses Wahnfried 1975 Hans Jürgen Syberberg
戦後30年経っても悪びれず揺るぎないなんて、アッパレとしか言えず、もお尊敬に値するわ
尚、こんなオカンでも、少なくとも長女は反対せい!の反体制に育った
フリーデリントは、21歳となった1939年、スイスを経由して英国に亡命し、英国では新聞に反ナチスのコラムを執筆した
1953年に西ドイツに戻り、バイロイト音楽祭の期間に音楽を学ぶ学生のためにマスタークラスを開いたり
実家と再び関わって母親とも折り合い付けるようになる
1980年、パトリス・シェロー演出『ニーベルングの指環』のドキュメンタリー映画を製作したフリーデリント
アタシゃ1988年発売の指環レーザーディスクセット特典盤で観たけど
Richard Wagner +THE RING of FIRE+ Patrice Chéreau+/Pierre Boulez Bayreuth Produktion 1976
何がワロタと言って、娘がママの弱点を暴露した件よ
ヴィニフレートはね、ま、過去の遺物だしね、シェローの現代風演出を大いに批判していた
そんなある日、いつものようにブツブツ垂れる所へ、娘から「ママ、後ろを見て頂戴」
言われるがままにママが後ろを振り向くと、そこにはシェローが立っていた
シェローがヴィニフレートとの謁見を希望しても断られるから、娘がドッキリ発想で席を設けたの
ヴィニフレートの反応はってか?
確か、葡萄酒を堪能して軽く出来上がっていたも手伝い
真っ赤な顔して腕振り上げるもガクガクしながら、「あ~、アナタを殴りたいと、い…いつも…お…思ってたのよ~」
真っ赤な顔の一番の理由:「葡萄酒や怒りのせいでなく、相手の顔を目の当たりにして」
当時のシェロー、まだ30何歳と若々しい
フリーデリント:「イケメンに弱いママなんです」
何となくわかる
旦那と総統閣下の顔を、上にペタリした画像で確認してみなはれw